*以下、文章中に不快な表現がございます。メンタルに自信のない方はご退出されることをお勧めいたします。また、筆者には、いかなる宗教・宗派に対しても礼讃あるいは中傷の意図のないことを付言しておきます。
こんにちは!「カラマーゾフの兄弟」の授業、おもしろかったですね(´∀`)謎の文学勢の中の人の私は、狂喜乱舞でした!文学勢が増えればいいのに!!ってなわけで、今回は「カラマーゾフの兄弟」とある種の共通点を有する作品、遠藤周作の「沈黙」について書きたいとおもいます。一度、Youtube大学でもチラッと出てきているのですが、思い出せますか??
あらすじ
「」内は本文の引用です。
1.1638年、イエズス会が日本に派遣していたフェレイラ教父が、長崎で拷問をうけ、棄教したとの連絡がローマ教会にもたらされる。フェレイラ師の教え子である、ロドリゴ、ガルぺ、マルタの3人は、殉教ではなく棄教したしたとの知らせを信じることができず、日本に渡ることを決意する。長崎では、イノウエなる人物が拷問を繰り返し、数多くの宣教師に改宗を迫っているとのことだった。
日本に渡る船の中で、マルタはマラリアに罹り命を落とす。残されたロドリゴとガルぺは、船で出会った日本人のキチジローに日本での案内役を委託する。彼は酒飲みで弱虫で卑怯で、「死さえ恐れない民」という日本人の印象とはかけ離れた男だったが、その言動の中にたびたび信徒(ここではキリスト教信者のこと)では無いかと思わせるものがあった。そのため、ロドリゴたちは幾度か信徒では無いかと尋ねたが、彼はいつも首を横に振った。
長崎沿岸のトモギ村にたどり着いたふたりは、村民から「パードレ」(司祭様)と呼ばれ貧しいながらも手厚くもてなされる。フェレイラの行方はわからなかったが、洗礼を授けたり、モキチやイチゾウといった村民とも交流が深まってゆく。そして、キチジローは信徒であるが、かつて踏み絵を踏んだことがあると知る。そんな中、キチジローの手引きで危険を顧みずに五島まで信徒へ会いに行ったロドリゴ達だったが、その帰り道でキリスト教徒を弾圧すべく集まった役人がトモギ村の村民を詮索し、ロドリゴ達を捉えようとしていることを知る。
村民達が馬鹿を装うことで難を逃れたロドリゴとガルぺだったが、ロドリゴの頭の中で「誰が私たちの存在を役人に訴えたのか」という疑念がつきまとう。そんな中、キチジローは五島での出来事を大袈裟に語り、村民の人気者になっていた。
再びトモギ村に現れた役人は、村民の中から一名が長崎に出頭せよと告げ、老人を人質として馬で引きずっていった。村民は、司祭を守るべきだと言う意見と、司祭を追い出すべきだ、と言う意見に二分し、長時間の話し合いの末、キチジローが出頭することになった。イチゾウとモキチが自分も行くと言い出し、絵踏みをさせられると呟くモキチにロドリゴは思わず、「踏んでいい」と言ってしまう。
「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えらるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」
キチジローの言葉には、キリスト教徒が迫害・弾圧されているのに神が沈黙していることへの恐怖が含まれていた。
2.長崎での取り調べの日、絵踏みをしたキチジロー、モキチ、イチゾウの3人だったが、さらにマリア像に向かって淫売と言い唾を吐きかけろと命じられる。キチジローだけがそれを行い、モキチとイチゾウは捕らえられてしまう。ふたりは、長崎で市中引き回しのうえ水磔の刑に処せられることになった。波打ち際に立てれた十字架に磔られたふたりは、潮が満ちるたびに体力が削られ、呻き声を上げながら殉教した。それは、ロドリゴが夢見た「空に栄光の光がみち、天使が喇叭(らっぱ)を吹くような」殉教とは全く異なるものだった。
役人が山狩りをして切支丹を探そうとしていると知って、ロドリゴとガルぺは別れて逃げることにした。ロドリゴは、たどり着いた廃墟の島でキチジローに出会う。彼が自分を役人に突き出すのではないかと疑いながらも、空腹と渇きに耐えかねてキチジローの策に陥りロドリゴは役人に捕らえられてしまう。
3. 窪地の小屋に閉じ込められ、そこの番人からフェレイラ師が転んだ(棄教・転宗すること)と聞かされたロドリゴだったが、番人はいずれロドリゴ自身も転ぶと言う。ロドリゴを取り調べたのは、物わかりの良さそうな老人であったが、その人物こそ宣教師を拷問にかけることで悪魔と恐れられていたイノウエ(井上筑後守)であった。
それから、舟に乗り馬に引かれて別の場所へ連れて行かれたが、その後をキチジローが常について回っていた。ロドリゴは、キチジローに寛容になることができず、「去れ。行きて汝のなすべきことをせよ」とキリストがユダに送ったのと同じ言葉を思う。
連れてこられた先の牢屋でロドリゴは、日本人の信徒が処刑されるところを目の当たりにし、また、ガルぺが拷問で殺される場面も目撃する。そして、寺院に連れて行かれ、黒衣の人物に会う。それは、日本名を名乗り、妻子を持ち、日本人風の髪を結い、キリスト教は邪教であるとの本を書いているフェレイラであった。フェレイラは日本人の信仰は、イエズス会(ザビエル)が布教したものとはすり替わっている、と主張する。
「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」
4. ついにロドリゴは穴吊りの拷問に処せられることになり、市中を引き回されたあと、小さく真っ暗で尿の悪臭のする囲いにいれられる。そこで、彼は誰かのいびきを耳にして、思わず笑う。そのいびきがやむと静寂の中に「俺あ、切支丹じゃ、パードレに会わしてくいろ」と泣くように叫びコンヒサン(告悔)を願うキチジローの声が聞こえた。ロドリゴは、義務的に祈りの言葉を呟くが、心のうちではキチジローを許せてはいなかった。そして、また誰かのいびきが聞こえ始めた。自分が処刑されるかもしれないという夜に、いびきのような「俗悪な不協和音」が混じることに怒りを覚えたロドリゴは、思わず壁を打ち付ける。その音を聞いた通辞はすぐさま駆けつけ、死ぬのが恐ろしくなったなら転べと促す。「私はただあの鼾(いびき)を」といいかけたロドリゴに、通辞の後ろに立っていたフェレイラが告げた。「あれは、鼾ではない。穴吊りにかけられた信徒たちの呻いている声だ。」
それでも、主は沈黙している。
ロドリゴは、踏み絵に足をかけた。
沈黙とは
カラマーゾフの兄弟との共通点は、言わずもがな。受難の時に神が沈黙していることから湧き起こる、神の存在の否定と背教ですよね。遠藤周作自身が経験なクリスチャンだからこそ、この主題はとても重いのです。「沈黙」が、私のような異教徒の心にまで深く根を下ろすのはこの辺りに理由がありそうです。神の存在を肯定するか否定するか、あるいはその問題に対してどのように決着するのかの答えを明示してはいませんが、立場や主張を明らかにせずともこの小説は問いを投げかけただけで己の(宗教的)価値観と向き合う機会をくれます。
作中のロドリゴは、パードレ(司祭)の立場にありながら棄教します。彼自身が、弱虫で卑怯と嘲ったキチジローと同じく踏み絵に足をかけるのです。何度もコンヒサン(告悔)を願い出たキチジローよりもたちが悪いとも言えるでしょう。しかも、これまでたくさんの殉教者を見てきた奉行のイノウエはおろか、小屋の番人にまで棄教すると見透かされているのです。師であるフェレイラが棄教しているとは言え、同志のガルぺは殉教しているわけですから、それもまた言い訳に聞こえてしまう。モキチは拷問にかけられる前、「はい、パードレ、わしら、パードレのことは口ば割らんやった」「またお役人が来られたっちゃ口ば割りませぬ。どげんことんあったっちゃそげんしますけん。(またお役人が来たとしても、口を割りません。どんなことがあってもそのようにいたしますから)」(()内は筆者補足)と言葉を残します。日本の貧しい農村の名も無い村民であるモチキやイチゾウの方が、殉教と言う形でよっぽどパードレに見合う行動を取っているのです。信仰とは何か、という問いも同時に投げかけているように思えます。ぶどう酒やパンがなくてもパードレらしくあれよ、というのは簡単ですが、いかなるときも沈黙し続ける神に命を捧げられるのか。命と引き換えにしてでも信じるに値する神は本当にいるのか。永久に答えは出ません。
(念のため付言しておくと、遠藤がロドリゴのモデルにした人物は殉教しています。)
さて、遠藤はまた、日本人は神の概念を持たない、とも書いています。なるほど、八百万ならいざ知らず、キリスト教に代表されるような一神教的な神の存在を信奉する日本人は少数派と思います。
私の話をすると、幼稚園・大学・大学院ともミッション系だったので、「天にまします我らの父よ」で始まるキリスト教のお経の暗唱くらいは今でもできますし、心に留めている聖書の言葉もあります。キリスト教の坊さんのことも好きです。ただ、キリスト教そのものには全く染まりませんでした。幼稚園の年少組に上がり、どうやらキリストは現実に存在した人間だと理解した時の驚愕は今でも覚えています。それまでは、「聖書」という物語(作り話)を聞かされていると思っていたんですね。そんなわけで、私の中のキリスト教は永らく、「三蔵法師は実在だが、孫悟空は架空の存在」とほぼ同義で位置付けられることとなりました。「キリストは実在だが、その奇跡は架空の物語」。超現実主義者だからと言えなくもないですが、遠藤の言うように、神の存在を理解できないためにキリスト教というものを理解できない、とも思われます。
散々キリスト教を理解できない、と書きましたが、キリスト教が私という人間に何ももたらさなかったかと言うと、決してそんなことはありません。少なくとも、あらゆる宗教に対する寛容の精神は持ち合わせていると自負しています。それはもう、キリスト教を名乗る一部の人たちが排除したがる宗派も含めて、かれらの「聖書」を何度でも読んでいます。それは、今まで出会ってきた神父や牧師が、他宗教・他宗派に寛容だったから。もし彼らが、排他的・好戦的な人物だったら、キリスト教=邪教の考えが染みついていたでしょう。
隣人愛。キリスト教も最も美しい部分を享受したと思っています。
図らずしも自分のことを書いてしまいましたが、「沈黙」は、個人の信仰と神の存在の是非というミクロ視点と、日本とヨーロッパ諸国との宗教的隔絶というマクロ視点という意味で、二重の宗教的価値観の問いを投げかけているわけです。
ざっくりまとめると、面白い本だよってことです。
ではまた(*´꒳`*)