【名文の条件】~単純明快と見つけたり~

執筆者 | 21/06/05 (土) | コラム

【名文の条件】~単純明快と見つけたり~

みなさま初めまして。2021年1月末入会の杉岡正浩です。

三重県在住、接客販売業のかたわら、小説執筆の創作活動を行っています。

クラスはアリスカーナ、部活はスピ部に所属しております。


私は中学二年生より小説を書いており、今年2021年で25年目に突入しました。
人生の何分の一を創作活動に費やしてきたかを考えると感慨深いものがありますが、ここまでの道のりは決して楽ではありませんでした。
むしろ回り道ばかりしてきたように思いますが、その回り道の中から得られたものが今に活きていると思うことも多々あります。
今回はその中の一つを選んでお話させてもらおうと思います。

名文の条件です。

まず断っておかねばならないことがあります。

私は、決して名文家ではありません。
名文家に憧れる一介の物書きです。

物書きを志した以上、「文章が上手い」と言われたい。そんな思いは持っています。
しかし、どのような文章が「上手い」のか? あるいは「下手」なのか?
ある時期までの私は、それを分ける条件が何なのかわかりませんでした。
そこで、私は世に「名文家」と呼ばれる文士たちの文章を読みあさりました。あるいは「文章が上手い」と評判の作家の本を読みまくりました。
そうすることで「名文の条件」とも言える「エッセンス」を抽出できないか? と思ったのです。
そのエッセンスが手に入れば、私も文章が上手くなれるかもしれない、と期待して。

長い時間を費やし、私は名文や名文家の書く文章の中から「二つ」の「共通項」を発見しました。

・一文が短い
・言葉遣いが平易

何のことはない、こんな単純明快で呆気に取られるようなものが、名文の条件?
そのように思われる方がおられるかもしれません。
では名文家と呼ばれる作家を挙げてみましょう。

まず夏目漱石と森鴎外は外せません。
次に志賀直哉でしょうか。
もう少し時代を下るなら、海音寺潮五郎や三島由紀夫、川端康成、司馬遼太郎といった作家も挙げられます。
個人的には北方謙三氏の名前も加えたいですね。短文主義の極致と思っております。
他にもたくさんおられると思いますが、このあたりで割愛します。

名文があるなら「悪文」もあります。
典型例は、裁判の判決文や官僚の書く文章です。
なぜ悪文なのかというと、上で挙げた条件の「真逆」、つまり「一文が長い」のと「言葉が難解」だからです。

一文が短いということは、「不要な言葉を省いている」とも言えます。
不要な言葉、つまり装飾語や接続詞などです。

またその短い一文の中で使われている言葉は、非常に易しいものです。
決して難解な漢語や熟語、あるいはカタカナを使っての表現はしていません。

例えば、次のような文章があったとします。

「城外を取り巻く敵兵たちを睥睨(へいげい)するべくと階(きざはし)を一足飛びに駆け上がり、何するものぞと眼下に臨めば、その者らが手にし、煌々と輝く灯火は、まるで陽光のごとくあたりを眩く照らし出し、さながら昼のようで、さらには口々に歌を口ずさみ、その声があたりの山々に反響し、何倍もの音量となって耳朶を刺激することを自覚した際、彼はそれまで胸の中で燃え盛っていた闘争心が霧消するのを感じ、次に自嘲の笑みが溢れてやまなくなった。」

何だか格調高い文章のように見えます。
難しい言葉をこれでもかと使用し、読点(「、」のことです)で繋がれた文は場面の移り変わりを表現しているようで、何だか格調高い名文のように見えませんか?

でもこれは、私の感覚では完全に「悪文」です。

まず一つ目の条件「一文が短い」という項に照らし合わせましょう。
上の文はあれだけ長く書いておいて、「句点(「。」のことです)がないため、一文なのです。

次に二つ目の条件「言葉が平易」にも当てはまりません。
難解な言葉を使うことで格調高さが演出されるかもしれませんが、明治や大正時代ならいざ知らず、令和の時代にこんな言葉を使う人は、そう多くはいないでしょう。

ちなみに上の文章で表現しているのは、四字熟語にもなっている「四面楚歌」の元となった場面の項羽をイメージして書きました。

さて、では私の見つけた「名文の条件」二項目に当てはめて上の文を書き直してみます。

「敵兵の声が城外に響き渡っている。
その声に臆するどころか、彼は自らを鼓舞した。そうして、敵がどれほどの大軍か見てやろうと思い立った。
階段を登り、城壁に向かう。
見下ろす。
目の前に広がる光景は、見渡す限りの敵兵だ。
一人一人がたいまつを手にし、歌を口ずさんでいる。
この光景と声を見聞きしたとき、彼はそれまで胸の内に抱いていた闘争心が消えているのを感じた。
思わず笑いがこぼれる。
自嘲のそれだと、彼は思った。」

一応、元の文の雰囲気を保つためにやや難しい言葉を使ってしまっていますが、歴史小説の場面なのでご了承ください。
違う物語ならもっと平易な言葉に置き換えているところです。

さて、如何でしょうか?
最初の長くて小難しい言葉遣いの文章が、読みやすく短くなったと思います。

どちらが読みやすくわかりやすいかと問えば、恐らく皆さんの答えは後者だと思います。

言葉を繋いで一文を長くするよりも、一文を短くして細かく繋いでいったほうが読みやすいし、わかりやすいと私は思います。

私の例文が名文とは全く思いませんが、「前者に比べればマシになった」のではないでしょうか?
このように、一文を短くすることで主語と述語を近くに置くことができます。
また、平易な言葉を使うことで、難解な言葉の意味を知らなければ文意が伝わらないという事態も避けられます。

冒頭で挙げた名文家たちの文章は、この二つの条件が当てはまります。
ただし漱石や鴎外などは明治の文豪なので、使用する言葉がどうしても漢語っぽく、現代人からすれば難しいです。
時代を考えれば仕方がないでしょう。

このように名文家たちの名文とは、実は単純な構造です。
もちろん、名文の条件がこの二つしかないとは思いません。他にもあります。
しかし最もわかりやすいのはこの二つだと私は思います。

この法則に気付き、これを意識して書き始めてから、私は「文章が上手い」と言われるようになりました。
本当に文章が上手いかどうかは、私にはわかりません。
私はただ、自分が見つけた「名文の条件」という「方程式」に言葉を当てはめながら文章を書いているだけです。

この条件を駆使すれば誰でも名文が書けるかと言えば、残念ながら答えは「ノー」です。
なぜなら、文章が上手くても「伝え方」が下手なら、伝わるものも伝わらないからです。
あっちゃんの動画にもありましたよね。

「人は話し方が9割」って。

文章に置き換えれば、話し方とは伝え方、つまり「構成」と言えます。
文章の上手い、下手は残りの1割に過ぎないでしょう。

小説を書いて発表する中で、文章が下手と自ら言う人をよく見かけます。
謙遜を込めてのことかもしれませんが、下手と自覚しているなら「上手くなる」ために学ぶことはたくさんあろうと思います。

小説もコラムも文章を書いて読んでもらうものですから、せっかくだったら「読みやすくわかりやすい」文章を書きたいものです。
その一念で今回、このコラムを寄稿致しました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

2021年6月5日 杉岡正浩

執筆者 | 21/06/05 (土) | コラム


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