あっちゃんとフルーツポンチ村上さんのコラボ対談動画を拝見しました。
(参考1:俳句の才能開花!フルーツポンチ村上健志とコラボ・前半)
https://www.youtube.com/watch?v=6nwiDmeIC0k
(参考2:同期芸人・中田敦彦さんとコラボ! あっちゃんありがとう。・後半)
https://www.youtube.com/watch?v=xzXW3wXRc60
前半と後半を拝見して、私は村上さんが「まるで自分みたいだ」と思いました。
表現に対する捉え方、あるいはもっと大きな枠組みでの「感覚」そのものが、です。
動画の中で、あっちゃんは村上さんの感覚を「わからない」と述べておられましたが、私にはまるで自分のことのようにわかりました。
そこで僭越ながら、私の感覚で村上さんの感覚を捕捉してみようと思います。
1. 村上さんの俳句の境地は正岡子規に近い
動画の中で、あっちゃんが村上さんの俳句に対する感覚、境地を「松尾芭蕉みたい」と述べていました。
確かにそういう部分はあると思います。
けれど、どちらかと言えば私は、正岡子規の提唱した「写生」という境地が、村上さんの感覚に近いのかなと思いました。
子規の言う「写生」とは、「見たまま、ありのままを描写する」という考え方です。
村上さんの句集の中から彼が挙げた句で「君の足這う蟻のこと教えずに」というのがありましたが、この句に根ざす感覚こそまさしく子規の提唱した「写生」の境地だと私は思います。
詠み手は目の前にある、あるいは頭の中にある映像をただただ「写し取り、描写する」だけで、それをどう捉えるかは受け手に委ねるというのが子規の「写生」だと私は捉えています。
もう一つ。
村上さんが辿り着いた境地は、あの『風姿花伝』の有名な一節、「秘すれば花なり」に通じるのではないでしょうか?
2. 「秘すれば花」は人間の想像力の極致
秘すれば花なり。秘せざるは花なるべからず。
私は学生時代、落語を通じて「日本人に於ける芸とは何か」をテーマに研究したことがあります。
学業として専攻していたわけではなく、落語研究会でもなく、研究系の部活でした。
そのときに私が辿り着いた結論は、「間(ま)」でした。
間こそが、日本の芸能の真髄であると結論しました。
間とは「無」であると言い換えることが出来ます。
落語であれば、言葉と言葉の「あいだ」にある無言の「時間、空間」を指します。
この「無」のあいだに、聞き手は想像力を働かせます。
何かを見聞きする受け手が勝手に想像する情景やものこそが「最も美しい」と言っているのが、「秘すれば花なり」という言葉の意味するところと私は考えています。
例えば花を表現するにあたり、本物の花と花瓶を持って来て花瓶に花を生けたとします。これでは「秘せざるは花なるべからず」となってしまうのです。
あたかも「そこに花や花瓶があるように」動作、仕草で表現するのです。
こうすることで人間の脳は勝手に「花」と「花瓶」を想像します。
どんな花だろう? 色は? 形は? 花瓶があるようだ。どんな色? 形?
このような想像を一瞬で働かせ、見聞きする受け手の数だけ、幻想の花と花瓶が存在することになります。
この「幻想の花」こそが最も美しいと世阿弥は言っているのです。
日本人は「無」の中に「有」を見出し、そこに「美」を感じ取った希有な人種です。
この感覚こそが日本人に於ける「芸」の真髄、「間」に通じると私は結論付けたのです。
村上さんの俳句に於ける感覚も、これに通じるものがあると思います。
詠み手の主観を排除して情景を「写生」しているからこそ、聞き手、受け手には無限の想像の余地が生まれます。
その無限の想像とは、「秘すれば花なり」の世界ではないでしょうか?
3. チョコレートの包み紙が主体となる感覚
これも私にとってはとてもよく理解できる感覚でした。
動画の中であっちゃんは余り理解できなかったようですが……。
私は小説を書く人です。
村上さんが仰っていたこの感覚は、私の場合、登場人物の設定を作っていくときに現れます。
登場人物は大きく分けて「主役」と「脇役」がいますが、私の創作に於けるの持論に、
「主役は放っておいても輝く」
というのがあります。
「主人公を主体として物語が進行するのだから、彼らは放っておいても勝手に輝く。むしろ作者が注力すべきは主役以外の登場人物」
と私は考えています。
だから登場人物の設定を作るとき、主人公の設定がすぐ決まるのは当然として、主人公以外の人物、特に脇役になるほど気合いを入れて作り込みます。
具体的には「短所」や「奇妙な点(癖や趣味、嗜好など)」を徹底的に考えます。
こうすることで、彼らはいわゆる「キャラが濃く」なっていくからです。
そういう「キャラの濃い」連中に周りを固められた主人公が織りなす物語は、作者が考えた物語というレールから逸脱し、彼らが自分で勝手に歩み始めます。
村上さんの仰る「チョコレートの包み紙」は、小説に置き換えれば「脇役」と言えると思いますが、脇役こそ主役級に目立たせるべきだというのが私の考えです。
もっと言い換えれば、「人とは違う角度からモノを見る」とか「斜めから捉える」という表現になるでしょうか。
どれも同じことを言っているのですけど、村上さんは「チョコレートの包み紙」と表現されたのでしょう。
思うに、あっちゃんが持っているのはビジネス、商売の感覚で、村上さんや私が持っているのは「芸術」の感覚なのでしょう。
共通しているのは、「人と同じ方向からモノを見ない」という点でしょうか。
人と違うことをする、考えるという点は同じでも、ビジネスと芸術という具合に方向性が異なればその感覚は全く違うものに見える、と証明してくれた動画ではなかったかと思います。
最後に、この場を借りて、あのような濃密なトークを聞かせてくれたあっちゃんと村上さんに、心から感謝を申し上げます。