ゆっくりと時間が進む、時計屋

執筆者 | 21/06/15 (火) | コラム

愛用の腕時計が進みだした。

月差±15秒の電池式からは非常識な話しで、機械式は正常な状態でも一日で10秒は狂うが、流石に一日1分以上も進むと具合が悪くなってくる。手巻き式の時計なので、毎朝巻く度に家の電波時計で合わせていたが、それも飽きてきたので、時計屋に修理に出す覚悟が出来た。

とりあえず、今住んでる町の駅前にある時計屋に持ち込んだ。そこは駅前の区画整備で建直しした小さいけど小奇麗なお店で、入店すると自分と同じ年くらいだろうか、こざっぱりとした五十路くらいの主人が出て来た。腕時計の進みを相談すると、さっと時計を預かりルーペで見て「分解掃除が必要ですね、正規ルートですと10万円、正規ルート以外でも5万円くらいはかかりますね」と予想したセオリー通りの返答があった。この言葉が先にあった、正に覚悟なのだが、ロレックスだのゼニス、オメガetcなど洋物の高級時計は聞こえは良いが、機械式の時計を持つにはこの覚悟がいる。車検の様に定期的にそれなりに維持費がかかるのだ。これがブランドやカレンダー、針が長針短針以外に付いてる数が増えるなど、仕様によって金額が跳ね上がってくる、某ブランドのクロノグラフを正規店に出すと、20万円くらいかかるとの話しを聞いた事もある。その場は店主に検討しますと、丁寧に言って店を出た。

実は5年以上前に、元住んでいた町の古びた時計屋で分解掃除に出した事があって、そちらに向かう事にした。最初からそうすれば良いと思われるかもしれないが、その時にそちらの店主は既にご高齢だったのと、古びた店舗が営業を止めてないか、自信がなかったからだ。

この腕時計と出会ったきっかけは、社会人なって聴いたラジオ番組で、この放送はその時々のテーマをゲストが語りつくすコンテンツなのだが、その中の出演者が、最初に月に行った腕時計”the first watch worn on the moon“この腕時計を絶賛していたのだ。まんまとその言葉に心を奪われた自分は、購入を何度も試みるも社会人2年目の自分には当然お金も無く、一度は諦めたが、その後数ヶ月後に退職する前々職の退職金で、この時計を衝動買いする事になる。

なぜそこまで、この腕時計に魅了されたか、その理由を話すと、1960年代中半から1970年前半まで、アメリカとロシアは初月面着陸の競争に熱狂する宇宙開発の時代を迎える。当時の日本のマスコミも、その様子を逐一放送しており、それをTVで見ていた1970年生まれの自分にとってスタンバイ・ピーすらも幼き日々の思い出でもある。実際に幼稚園時代に△と□と〇だけで描ける、ロケットが月に行く様子をよく絵に描いていた記憶がある。幼児時代の宇宙への憧れは、社会に出て大分凹んでいた自分には、懐かしく、眩しく見えたのだろう。

心配していた、その古びた店舗は案外と健在だった。

土曜日の昼下がり、ガラスの引き戸を入るとやはり中には誰もいない。常識的な大きな声で、「すいません」と言うと、奥から自分の父親くらいの、飾り気のない少し小柄な店主が出てきた。自分の過去の印象と比べると、少し痩せた感じはあるものの、数年前にお会いした店主に間違いなかった。店主は柔らかい感じの話し方で「なんでしょう?」と聞かれたので、自分は「数年前に分解掃除しもらった腕時計なのですが、進むのです」と答えて、腕時計を渡した、もちろん店主の方は覚えていない様子であったが。眼鏡にルーペをかぶせ、作業台のスタンドライトを点灯すると、何やら作業を始めた。自分もそこにあった丸椅子に腰かけて待つ事にした。1分もすると振り子時計の様なチクタク音が店舗に鳴り響き、少しすると店主は立ち上がり「この腕時計、一日に1分15秒くらい進みますね」とズバリ言い当てた。自分が「そうです」と答えると、店主はまた座り作業を再開した。好奇心旺盛な自分はどの様な方法で調べたか聞きたかったが、作業の邪魔になるといけないと直感的に思い、黙ってまた腰かけた。

どれくらい経ったののだろうか、おそらく20分くらい待っていたのか、その間店内をぼんやりと見渡していた。お店の正面には平井堅の歌に出てきそうな柱時計が正確な時をうち、眼鏡を作る時に使う差替えレンズや補聴器の交換用電池に薄っすらとホコリがかぶったままになっている。ショーケースには型遅れの腕時計数本と、数十年前の懐中時計が数個並んでいる。きっと数年前にここに来た時と、ほとんど様子は変わってないんだろうなと、ふと思った。

日々慌ただしく過ごしている自分から見た、この時計屋はゆっくりと時が流れているように見えた。

あのチクタク音が止まって数分経つと、店主がまた立ち上がって「これで、どうなるか使ってみて下さい」と腕時計を返された。料金を払いますと伝えると、以前に分解掃除をしてもらっているから要らない、と断られた。流石にこのまま払わずには帰れないと思い、二度伝えるが断られたので、これ以上は職人のプライドに触れると思い、ご厚意を受ける事にした。

ただ進んだ時間を正確に言い当てたのは、どうしても知りたかったので、思い切って聞いてみる事にした。店主は、作業していた機械から心電図に使うような巻いた紙テープを見せてくれて「この角度でおおよそ分かります」と言って説明してくれた。調整にはタイムグラファーと呼ばれる機械を使用する。正に時計の心電図で、紙テープには心拍の様な二つの波形が描かれ、時計を合わせる時には時計の進度を調整してその二つ角度を一致させるとの話しだった。更に驚いたのはご使用されたタイムグラファーは50年以上活躍されているそうで、普段から仕事でユーザーに消費を促進している自分には酷く痛かった。店主は妙な事に興味を持つ客に関心をもったのか、このタイムグラファーの思い出話しをしてくれた。帰り際に店主は、穏やかな声で「機械式の時計は狂うから良いと話すと言う人もいます」と教えてくれた。

ここ数日、愛用の腕時計は、ほとんど正確に数秒しか進んでいない。

執筆者 | 21/06/15 (火) | コラム


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