*下記文章中には、かなりショッキングな内容が含まれます。メンタルに自信のない方はご退出されるか、相当コンディションのいい時にご覧になることをお勧めいたします。
こんにちは!2030年の授業、面白かったですね(*´꒳`*)その中で、アフリカが注目だよ!ということが語られましたよね。これからのアフリカのお話はきっとYouTube大学で扱われると思うので、今回は、アフリカの歴史をピックアップして書きたいと思います。なんとなく、貧困や紛争のイメージがあると思いますが、具体的に何が起こったのかを知る人は少ないと思います。ぜひ、ご一読ください!
ケニアの歴史
アフリカ東部に位置するケニア。旧宗主国(ここではかつてケニアを従属国として支配をしていた国の意)はイギリスで、1963年に独立、翌1964年に共和制に移行してケニア共和国が成立しました。建国の父として知られるケニア初代大統領ジョモ・ケニヤッタは、以下のような言葉を残しています。
「白人がアフリカにやってきたとき、われわれは土地を持ち、彼らは聖書を持っていた。彼らはわれわれに目を閉じて祈ることを教えた。われわれが目を開いたとき、彼らは土地を持ち、われわれは聖書しか持っていなかった」
イギリスがケニアを従属したのは1885年ですから、単純計算しても70年以上にわたり虐げられていたことになります。その長期に渡る植民地化を端的に表したのが、ケニヤッタの発言です。
これだけ聞くと、かつてイギリスに植民地支配されていたケニアは紛争の末独立を勝ち取った、と解釈されそうです。けれども、事はそう単純ではありません。
独立のきっかけになった「マウマウ」とはどのようなものだったか。それは現在どのように解釈されているのか。これらを紐解くことで、ケニアの現状が見えてくるはずです。
「マウマウ」とは
1950年代、アフリカの各地で独立闘争が繰り広げられていましたが、その最中の1952年、ロイヤリスト(植民地政府に忠誠を誓ったアフリカ人)であるワルヒウ首長が暗殺されました。これが、「マウマウ」と呼ばれる闘争のきっかけとなったと言われています。
暗殺の首謀者はケニアで中心的な政治結社であったKAU(ケニア・アフリカ人同盟:Kenya African Union)から派生したKLFA(ケニア土地自由軍:Kenya Land and Freedom Army)でした。KLFAは急進派で、武装による解放闘争を主張しており、白人農場や植民地政府に協力的なアフリカ人を襲撃していたのです。
イギリスはこの「マウマウ」の鎮圧のために正規軍5万人と爆撃機、植民地支配予算の4年分の費用を投じました。その結果、KLFAの総司令官であったデダン・キマジは絞首刑になり、彼の遺体は刑務所の敷地内に埋められ、墓標もない有様となりました。
「マウマウ」闘士たちは「野蛮人」「狂人」「テロリスト」と呼ばれ、さらにはケニア独立後のケニヤッタ政権、続くモイ政権下においても、「マウマウ」は違法とされました。すなわち、一連の闘争はアフリカ各地で広がっていた独立闘争とは無縁のものと位置付けられていたのです。「マウマウ」をきっかけにケニアが独立へ急速に動き出したことは間違いありません。では、なぜ独立闘争とされなかったのでしょうか。その背景には、歴史の捏造がありました。
歴史の捏造
文章中ずっと使用している「マウマウ」という呼称ですが、実はイギリス側からの呼称であって、アフリカ人は「ムインギ」(キクユ語で「運動」の意)と名乗っていました(マウマウは反英民族解放闘争を行った秘密結社と解説するwebページがありますが、そのような名称の秘密結社は存在しません)。語源については諸説ありますが、ここで着目すべき説をご紹介します。
「1948年、リフトバレーという土地で、ある兵士(ケニア人)が反英活動をしていると目された民家を襲撃する際、その家の見張りに立っていた人が、「マウ、マウ」というのを聞いた。「ウマ」という言葉はキクユ語で「出ていく」という意味であり、逆さに読んで暗号として「マウ、マウ」(敵が来たから、出て逃げなさい)と、家の中にいる人たちに告げたのである。見張りを含め、皆が逃げた後に兵士が家の中にはいると、儀式の後が残っていた。キクユの伝統的儀式であって、体から邪悪なものを出す「清めの儀式」と思われる。
この話を聞いたリーキー(L.Leakey)という白人研究者が「マウマウ」の神話を作ったのである。(中略)リーキーはキクユ人を急に「近代化」させようとした結果、キクユ人が「先祖返り」してしまい、野蛮な抵抗を始めたと説明した。そして、「マウマウ」は、「反キリスト教」と「反西洋文化」を標榜する秘密結社であり、「ムマ」という誓いは、残酷なことができるように人間をつくりかえてしまう恐ろしいものであると喧伝したのである[Leakey,1954,p.52]。この恐ろしい「ムマ」という宣誓が「マウマウ」の語源だとしたのが、リーキーの作り出した「神話」である。」(「帝国への抵抗」戸田真紀子 編 pp.43~44より引用)
引用文献の筆者であるG.C.ムアンギさんは、「マウマウ」の中心的民族であったキクユ人の方で、引用部分について「キクユ人なら皆知っている話」と書いています。また、リーキーはキクユ人の中で成長し「植民地政府に対してキクユ文化を解説する権威者だった」とも記しています。
リーキーなる人物がどのような人となりであったか分からないのですが、引用のエピソードは、いかにも前近代的な未開人が怪しげな儀式で白人を殺そうとしている、と捉えられます。このような馬鹿げた話でも、植民地支配をしていたイギリスにとっては己の所業の正当化のために好都合なものだったのかもしれません。「マウマウ」は野蛮人のテロだ、と主張することで、女王陛下の統治は完全、イギリスに非はない、と事態のすり替えができると考えたのでしょう。
己の罪を過小評価したいイギリスが「マウマウ」を独立闘争と認めないのは、納得できなくとも理解はできます。では、なぜ「マウマウ」は植民地支配の被害者であるケニア政府によっても「違法」と位置付けられていたのでしょうか。
そこには、初代大統領の政策と経歴が大きく関与しているように思われます。
ケニヤッタ初代大統領
「マウマウ」を独立闘争として認めなかったのは、「建国の父」ケニヤッタ大統領と2代目モイ大統領です。1950年に植民地政府によって「マウマウ団」は違法とされました。2003年9月、キバキ政権下になりようやく「マウマウ」は違法とする法律が撤廃されましたが、このように時間がかかった背景に、ケニア政界の権力争いがあったことは間違い無いと思います。
初代ケニヤッタ大統領は、「マウマウ」の中心的な民族であったキクユ人です。そのため、独立後のケニアではキクユ人中心の政治がなされていると揶揄され、「マウマウ」はケニア人全体ではなくキクユ人だけが行ったものであり、周囲の民族は「マウマウ」を支持していない、と主張するものが現れたのです。実際、ケニヤッタはキクユ人を優遇した政治を行っており、その後の民族対立の火種を生みました。
また、ケニヤッタは、実は「マウマウ」の先導者として逮捕されていた過去があります。ケニヤッタ自身が言うように彼はKAU穏健派の指導者であって闘争を行ったKLFAメンバーではありませんでした。そのため釈放されるのですが、本当は「マウマウ」と関係があったと考えられています。旧宗主国であるイギリスに阿らざるを得ない状況だったのではないでしょうか。
以上のような事情で、「マウマウ」は、違法のレッテルを貼られ続けたのです。
神話の捏造はケニアだけではない
ケニアの近現代の歴史を聞くと、あまりにも低俗な歴史の捏造に驚くと思いますが、このような事態はケニアに限ったことではありません。歴史を捏造されたことで有名なのは、ルワンダのジェノサイドでしょう。くしくも前回投稿のコラムでも書きましたが、ツチ族とフツ族が互いに虐殺を行い、100万人以上が犠牲になった出来事です。これも旧宗主国による歴史の捏造がありました。
19世紀、ベルギー人がハム仮説という旧約聖書に基づいた荒唐無稽な民族区分を行い、特に境界の無い民族をツチとフツに分け、少数派であったツチを統治者としたのです。その後の度重なるツチ優遇措置と1990年代以降のマスメディアによるプロパガンダで対立は激化し、ついにはジェノサイドへと至りました。また、「当時のハビリマニャ政権に近い貿易商が、フツ人成人男性の3人に1つが渡る割合で鉈を輸入した」(同書p.20より引用)のだそうです。「鉈(なた)を輸入」の意味がお分かりになるでしょうか。
ルワンダでは、ツチとフツが殺し合いをする際、年齢や性別に関わらず相手の頭部を鉈で叩き割っていました。もっとも原始的な殺人の道具として、鉈を輸入していたのです。
かつては、婚姻が交わされるなど友好的であった両民族は、入植者による虚言とコンロトールで大量殺戮を行うことになったのです。
このとき、先住のフツに対して後からツチがやって来たために、両者は500年に渡る部族紛争を繰り返してきた、という妄言が流布したことを知っている方もいらっしゃるかと思います。
復権なるか
さて、ケニアに話を戻します。
「マウマウ」の闘志たちは、その後どのような処遇を受けたのでしょうか。
闘志たちは、自らの戦いはケニアの独立のためであり殺戮では無いとして名誉回復を図りたいはずです。また、「マウマウ」討伐に際して傷ついた人々は、その賠償を求めるでしょう。しかし、ケニア政府は長らく「違法」としていたため、旧宗主国であるイギリスに賠償を求めることもできませんでした。
事態が動いたのは、2000年代になってからです。
リー・デイ社の代表デイ弁護士を元「マウマウ」メンバーが雇ったのですが、このデイ弁護士、イギリス国防省から不発弾問題に対する補償金として700万ドルの支払いを引き出した人物なのです。有り体に言えばやり手の弁護士なのですが、実はこの「マウマウ」訴訟のために1万5000円という高額な登録料を集金していました。
補償金が高額であるが故に、「マウマウ」闘志の訴えは、名誉の回復ではなくて金銭目的に矮小化されますし、登録料を支払えば金銭を得ることもかないません。「マウマウ」闘志たちは、名誉回復も金銭も得られなかったと思われます。
けれども、2013年ようやくイギリスがケニアへ30億円の支払いをすると発表しました。強姦や身体拘束、虚勢などの人権侵害に対して支払われたもので、2011年に拷問の記録が見つかったことが発端になっています。イギリスは、2013年まで「マウマウ」に関する資料を公開しない約束を取り付けていたので、それよりわずかに早い解決を見たことになります。60余年に渡る闘争に、ひとつの区切りがついた形になりました。
日本は何をしていたか
長々とケニアの歴史を語りましたが、その間日本はアフリカ諸国にどのように接していたのでしょうか。ここに、ひとつの報告があります。
「時代と場所が移って、1981年の日本。11月に開催された、日本アジア・アフリカ作家会議主催の「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議」において、堀田義衛(日本アジア・アフリカ作家会議長ー当時)は、「帝国主義と反帝国主義という言葉」は「耳障り」であるという発言をした。これに対して、ケニアの作家であるグギ・ワ・ジオンゴ(Ngugi wa Thiong’o:アフリカの代表的作家であり、ケニアの民族語であるキクユ語で執筆活動を続けている)は、「帝国主義という言葉を使わないのは無理である。帝国主義はイデオロギーやプロパガンダではない。帝国主義は強盗であり、泥棒である」と反論した。グギの隣席に座っていた筆者は、堀田の発言を聞いたグギが”abrasive”(耳障りな)と即座にメモをとったことを覚えている。」(同書 pp.37〜38より引用)
帝国主義という言葉は、日本人の歴史観から言えば、第一次世界大戦の終わりとともに終息を見た概念、という位置付けなのでしょう。堀田は、20世紀が終わりを迎えようとする中で帝国主義という言葉を用いることを「耳障り」と表現したのかもしれませんが、アフリカ諸国の歴史的経緯を多少なりとも知っていたならば、このような表現はできなかったと思われます。いやしくも国を代表して文化会議に出席した人物でさえこの程度の認識しか持ち得ないのであれば、一般人は無理解のレベルであることは容易に想像できます。
我々にできること
現在、アフリカ(の一部地域)は経済的に成長を遂げつつあり、今後の行方が世界中から注目されています。また、スポーツの親善試合においてもアフリカ勢はその身体能力の高さを発揮し、活躍の機会が徐々に増えています。けれど、経済においてもスポーツにおいても、アフリカ諸国と旧宗主国との間に激しい緊張関係があることは誰の目にも明らかです。置き去りになっている人々はいないか、本当に経済的に発展しているのかを注視することは、我々の責務であるように思われます。
ではまた(*´꒳`*)
あとがき
筆者は学生時代、引用文献の編者でもある戸田真紀子先生に「今すぐできるアフリカへの支援は何かありますか。」と問うたことがある。先生の答えは「コーヒーを買ってください。」だった。学生相手だから優しめの回答をしてくださったことを鑑みても、その程度のことしかできることがないのが現実なのである。いまだにコーヒーを手摘みする人たちに正当な報酬は支払われておらず、後継者不足が問題となっている(スペシャルティコーヒーという高価なコーヒーを消費することが、ほんの少しだけ役に立つかもしれないのだが、この辺りについては、西野亮廣さんのYoutubeで詳しく語られているので、是非ご覧いただきたい)。
また、筆者は常々「歴史が得意分野」と豪語している。その勢いに任せて、周囲に「史記」を語り「上宮聖徳法定説」を語ると、反応はいつも「歴史詳しいね。」である。ところが、近現代のアフリカ諸国の歴史的経緯を話して聞かせると、必ず「へぇ、アフリカも詳しいんだ。」という反応が返ってくる。指摘したりはしないが、彼らの「歴史」認識の中にアフリカの近現代史は含まれていないのである。それは、教科書に割かれるページが少ないことが原因で、とりもなおさず日本人の「歴史」認識にアフリカが含まれていないことの現れだと考える。
アフリカの急速な近代化の波に乗り、「我、金脈を見つけたり」と私腹を肥やす策略を練っても良いし、命がけの野生動物をみて「かわいい」と言っても文句は言わない。けれども、その背後に長きに渡る闘いの歴史があり、これからも遺恨を残し続けるであろうことを理解するのも大事ではないだろうか。いやしくも先進国の一員であり、これからの彼らの成長と発展を見届け、あわよくば利益をえようと思うのであれば、彼らの歴史に寄り添うことは必定と考える。あなたはそのスペシャルティコーヒーの苦味を、何と思い味わっているのかを、私は問いたい。
*参考文献・参考資料*
本文に記載のものの他
・アフリカレポート「ケニアの元「マウマウ」メンバーによる対英補償請求訴訟」(津田みわ)
・「ルワンダによる1994年のジェノサイドーその経緯、構造、国内的・国際適要因ー」(饗場和彦)