コラムにて小説を連載するという試みをやってみたいと思います。 色々考えましたが、最初の作品は、私がこれまで書いた短編の中で最も自信のある作品を選びました。
『無音が描く幽玄美』
2018年正月の三が日に書き上げた物語です。
芸大に通う主人公「僕」と、音大に通うヒロインが出会う第一話をお送りします。
スケッチブックにふと影がさした。
顔を上げると、目の前には今まさにスケッチしていた女性が立っていた。
顔にかかる長い黒髪を耳にかけながら、彼女は優しい眼差しで僕に言う。
「絵、見せてもらえる?」
僕は驚きと、いたずらを見つかった子供のような面映い気持ちを抱きながら、恐る恐る彼女にスケッチブックを渡す。
ありがと、と彼女は言って、僕の前に膝を折ってしゃがみ込み、スケッチブックをめくり始めた。
心臓がバクバクいっている。
どうしよう。今すぐ適当な理由をつけてスケッチブックを奪って逃げ出したい。
けれど彼女の表情は真剣で、逃げることを許さない。
絵を全部見終わった彼女は、それを僕に返してはくれず、
「これ全部君が描いたの?」
質問をしてきた。
僕はただうなずく。
「上手いね。すごく上手い。私、こんなに上手く描いてもらったのって初めて」
「それは、どうも、ありがとうございます」
かろうじて絞り出したのは何でもない返礼の言葉だったが、それでも少しつっかえた。
「私がピアノ弾いてると、君、いつも絵を描いてるよね」
「……はい」
気付かれていたらしい。
そりゃそうか。いつも描いていたら、気付かない方がおかしい。
彼女は微笑みを浮かべて僕にスケッチブックを返しながら提案をする。
「ねえ。今から時間ある? 良かったら少し話さない?」
僕は差し出されたそれを黙って受け取る。
「君に興味あるの。どうかな?」
どこか追い詰められた気持ちながら、舞い上がりたいような衝動を抑えつつ、僕はうなずいた。
◆
声をかけられた駅の近くにある、小さなショッピングモール。
そこに入っている一軒のカフェに僕たちは来ている。
時刻は夕刻から夜へ差し掛かる頃合い。店内には抑えたボリュームでクラシックが流れている。
僕たちは二人掛けのテーブル席に向かい合って座っている。
彼女がもう一度絵を見せて欲しいとせがんだから、僕はスケッチブックを彼女に渡した。
とりあえずそれぞれコーヒーを頼んだが、口に運んでいるのは僕だけだ。落ち着かないのと間が持たないのとで、減りが早い。
彼女は一枚一枚の絵をじっくりと時間をかけて見ている。
時々顔を左右に傾けたり、絵に顔を近付けたり、離したり。
彼女との間に会話は一切ない。
いい加減何か話しかけるべきかと思いながらも勇気が出ず、またカップに手を伸ばそうとしたとき、彼女がようやく口を開いた。
「絵から音が聞こえてくるみたいね」
彼女の言っている意味がわからず、僕は何度も目を瞬く。
「一枚一枚の絵を見て、この時の私が何を弾いていたのかまではわからないわ。けれど、まるで映画の一場面を切り取ったような絵ね」
どうも、と口にするのがやっとだ。
僕はカップを手に取り、口に運ぶ。
「私を描いてる人がいることは前から知ってたの。けれど私が帰り支度を始めたら、君も帰り支度を始めるしさ。帰る方向も逆だし、追いかけるのも何だかなって思って。だから今日は曲の途中で弾くのを止めて、声をかけてみたのよ」
そうだっただろうか。気付かなかった。
「ねえ。どうしてこんなに私ばかり描いてくれてるの?」
スケッチブックを返しながら彼女が尋ねる。
僕は照れと、やや後ろめたい気持ちがないまぜになりながらも答える。
「あんな綺麗な音楽は聞いたことがないんです。どうしてもその光景を絵にしたい。そう思ったからです」
「そうなんだ。……あ、ところで君、名前は?」
「あ……古谷昌登(ふるやまさと)です」
「古谷君ね。私は高家結美(たかやゆみ)。ピアニストの高家研吾(たかやけんご)って、聞いたことない?」
残念ながら僕の音楽に関する知識は壊滅的だ。興味が余りないというのが大きい。
僕が首を振ると、彼女、高家さんは驚いたように少し目を見開いて、「そう」とつぶやいた。
「じゃあ君、古谷君か。駅の中にどうしてピアノが置いてあるのか、知らないの?」
「考えたこともないです。都会ではそういうことがあるんだなって思ったくらいで、それ以上のことは何も」
「あら。君、どこかからこっちへ来たの?」
高家さんはテーブルに両腕を乗せて前のめりになる。
胸元が強調されて、僕は目のやり場に困る。
一瞬で目をそらしたから許して欲しい。
「大学がこっちに決まって、今年から下宿し始めたんです」
「どこ大学? あれだけ絵が上手かったら美大?」
大学の名前を告げる。
「そうなんだ。私、その近くの音大に通ってるのよ」
それを聞いて納得した。音大生ならあの音色も不思議ではない。
「私の父、高家研吾がその音大の出身でね。大学にはもちろん、色んなところにピアノを寄贈してるのよ。駅にあるピアノもそう。ピアノに触れてもらうことで未来のピアニストを生み出すきっかけを作ったり、音楽に触れる機会を作ったりしたいって言ってたわ。まあ娘の私からすると、何だか恩着せがましくてちょっと微妙な気持ちなんだけどね」
そこで高家さんがやっとコーヒーカップを手にとって口に運ぶ。
僕はその指の細さと美しさに、思わず見とれてしまった。
「そんなわけで私も父と同じ音大に通ってるの。父は私をピアニストにしたいらしいわ。けれど私はピアニストになりたいと強くは思っていないの。でも小さい頃からずっとピアノしかやって来なかったから、今更他のことなんてできないし。仕方ないから目指してるのよ」
「そうなんですね」
「古谷君は今年からこっちなのね。じゃあ私のが一個先輩なんだ」
僕はまだ十八歳だが、高家さんは十九か二十歳らしい。
「古谷君は美大で何を学んでるの?」
「えっと、日本画です」
「あら、そうなの? でもこの絵は全部鉛筆画よね?」
「いつも筆を持ち歩いてるわけじゃないですから。最初に高家さんを見かけたとき、とっさに鞄をあさったらスケッチブックと鉛筆があったんで」
何かを納得するように高家さんは何度もうなずいている。
「それにしても上手だよね。私、周りに絵を描く人がいなくて。ちょっと新鮮」
「それはどうも」
「ねえ、良かったらまた絵を描いて見せてよ。気が向いたら私、駅でピアノを弾いてるから」
高家さんはまっすぐに僕の顔を見つめ、にこにこ笑っている。
頼まれた僕は、嬉しい反面、疑問もあって、「はあ」と曖昧な返事をする。
「ん? あんまり気が進まない?」
高家さんが首を傾げると、長い黒髪も一緒に揺れる。
僕は髪の美しさと彼女の可憐さに見とれそうになりながら、必死に言葉を探す。
「いえ、嫌なわけでは、全然ないんですけど。……どうして俺の絵をそこまで気に入って貰えたのかなって。そこがどうしてもわからないです」
高家さんは姿勢を元に戻し、どこか呆れたような、仕方のない奴を見るような顔と目をして、さも当然のことのように言う。
「あら。美しいものは音楽だけじゃないわ。絵だってそうよ。描かれてるのが私だから言ってるわけじゃないのよ。君の絵は美しい。だからもっと見たい。そう思うのは不自然かしら?」
僕は慌てて手と首を横に振る。
「いいえ。そんなことはない、です」
「良かった。あ、別に私の絵だけじゃなくていいからね。君が描いた絵なら何でも見たいな」
僕はまた曖昧に「はあ」と答える。
「そうだ。連絡先交換しない? 私がピアノ弾きに来るとき、前もって連絡入れるわよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
そうして僕らはお互いの連絡先を交換した。メッセージアプリでの連絡先と、電話番号とを。
「ありがとう。また連絡するわね。じゃあ、今日は帰るわ。素敵な絵を見せてくれて、ありがとう」
そう言うと高家さんは荷物をまとめて立ち上がった。
「またね。バイバイ」
軽やかに手を振って去っていく彼女の後ろ姿を、僕はぼんやりと見送るしか出来なかった。
何だか嵐か台風が突然やって来て、あっという間に去って行ったような、そんな慌ただしい時間だった。
会計伝票も一緒になくなっていることに気付いたのは、僕が席を立とうとしたときだった。
(続く)
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
第二話は27日に更新します。
トライ&エラーの「トライ」なので、まずやってみます。