【小説】無音が描く幽玄美 「第三話 消えゆく音」

執筆者 | 21/06/28 (月) | コラム

『無音が描く幽玄美』(前回までのあらすじ)

 芸大に通う主人公「僕」は、音大に通う女子大生、高家結美とストリートピアノを介して知り合う。
 駅構内に置かれたストリートピアノを弾く彼女の姿をスケッチしていたところ、本人に捕まったのだ。
 嵐のようなペースに戸惑いながらも「僕」は彼女との繋がりを得た。

 彼女を意識する余り、上手く絵が描けなくなった「僕」に、結美は「自分を知って欲しい」と持ち掛ける。
 言葉の真意を掴みきれない「僕」は曖昧な答えを返すものの、結美の怒りに触れる。
 ごまかすことをやめた「僕」は、自らの気持ちを打ち明ける。

(第一話 二人の出会い)
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(第二話 縮まる距離)
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 結美と付き合い始めて季節がいくつか過ぎた。

 最初は僕の鈍感さや、女性慣れしていないところに結美が腹を立てることも多かったが、最近はそれも減った。
 お互いを理解して、上手く付き合える距離感やお互いの長所と短所を心得てきたんだろうと思う。

 秋のある日。僕は結美から学園祭に誘われた。
 結美の通う大学の学園祭は冬に行われる。
 僕はお誘いを受けて、見に行くことにした。

 結美はピアニストとして発表会もやりつつ、組んでいるバンドでドラマーとしてもライブを行うらしい。
 ピアノはいつも聞いてるからいいでしょと言われると、文句も言えない。
 本当は両方見たかったが、仕方がないのでバンドのライブだけ見に行くことにした。

 見に行って、僕は「おや」と思った。
 バンドの演奏は、さすがに音大に通っている人たちだけあって皆上手かった。そのままプロになっても通用するんじゃないかとさえ思う。
 僕が気になったのは、結美の様子だった。
 演奏に集中できていないのだろうか。時折首を傾げたり、サウンドを管理している人に何度も指示を出したりしていたのが気にかかった。
 学園祭が終わった後でその話をしたら、結美は少し真剣な面持ちで「そうなのよ」と言った。

「何だか音が小さく聞こえたり、聞こえづらかったりしてね。音量を上げてって言ってたの。練習中でもそんなことが何度かあって、皆に音量を上げてもらってたんだけど、あるとき、これ以上上げたら耳がおかしくなるって皆に言われたの。私はそれでも少し小さく感じられて、変なのって思ってたんだ」

 その言葉を聞いて、僕は嫌な予感がした。
 その後も普段の会話の音量に気をつけながら結美の様子を見ていると、確かに彼女は僕の言ったことに対して聞き返す頻度が増えている。
 あるときは、僕が話しかけても返答がない。声の音量を上げて話しかけて、ようやく反応する。

 大丈夫。大したことではない。
 きっと、そのうち良くなる。

 そのときの僕は楽観的に考えていた。と言うより、悪い方向へ考えないようにしていたのかもしれない。
 しかし現実は残酷だった。

 結美の耳は良くなったように思えない。悪くなる一方ではないか。
 もう黙っていられないと思い、医師に診てもらうことを勧めたが、結美は嫌がった。

 気のせい。今日だけ。用事があるから行けない。

 色んな理由をつけていたが、真実を知るのが怖いのだと僕にはわかっていた。
 きっと結美自身にも自覚症状はあるのだろう。だからこそ真実を知るのが怖いのだろう。
 気持ちはわからないでもない。信じたくない、受け入れたくない現実というのは、きっとある。

 自分に置き換えてみると、僕の手が震えて止まらなくなっただとか、視力が急に落ちてまともに見えなくなっただとか、そんな症状が考えられる。

 僕と結美では受ける期待の重さが違う。
 僕の絵は趣味の延長みたいなものだが、結美のピアノはプロのピアニストになることを期待されている。
 だからというだけではないが、僕は根気よく結美の説得を試みた。病院へ一人で行くのが嫌なら一緒に行こうとさえ言ったが、断られた。

「本当にどうってことはないのよ。放っておけばそのうち良くなるから」

 明るく笑って話す結美を見ていると、そうだといいなという気にさせられる。
 気にはなるが、明日には、一週間後にはきっと良くなっている。
 何の根拠もなく僕はそう思っていたし、結美もそう言うから信じることにしていた。
 だが、そんな淡い希望が無残に打ち砕かれる日がやってきた。

 結美が恐怖におののくような声で僕に電話をかけてきた。
 興奮して要領を得ないことをまくしたてる結美をなだめながら、僕は話を整理しながら聞く。
 一番重大な情報は、「スタジオでドラムを叩いていても、音が小さく聞こえる」と結美が言ったことだ。
 狭い空間でドラムのような打楽器を叩いていたら、音はかなり大きく響くはずだ。
 音楽スタジオに行ったことがない僕でも、それくらいの想像はつく。
 それが小さく聞こえるというなら、意味するところは一つしかない。
 それに思い至ったとき、僕は思わず電話口で怒鳴った。

「馬鹿っ! どうしてもっと早く病院に行かなかったんだ! 俺がずっと前から言ってただろう!」

 怯えきっていた結美は、僕に怒鳴られたことで電話口で泣き出した。

「だって、怖くて。本当のことを知ったら、私、どうなっちゃうか、わからなくて。知らない方が幸せなこともあるよねって、自分に言い聞かせてたの」

 僕のせいでもあろう。結美の言葉を信じ、何の根拠もない希望にすがり続けていたからだ。
 自分の判断を悔やむものの、こうなった以上、できることをするしかない。

「わかった、もういい。明日一緒に病院に行こう。嫌だって言っても、引きずってでも連れて行く。逃げちゃだめだよ? 逃げたら別れるからな」
「別れるのは嫌……」

 涙で何を言っているのかわかりにくい上にか細い声だったが、僕はなおも電話口で怒鳴る。

「絶対逃げちゃだめだぞ。明日の朝一で行こう。今から病院を調べる。詳しいことは後で連絡する」
「うん……。ごめんね。私のために、そこまでしてくれて」
「俺こそ、怒鳴ってごめん。結美のことが好きだから、できることなら何だってしてあげたい。それに俺だって、大したことないって信じたい。でもその気持と真実を知ることは別だ」
「うん。ごめんね……」
「いいから、今日はもう休んで。あとは俺がやるから」

 結美はなおも謝ったり感謝したりしていたが、何とか説得して電話を切った。
 不安なんだろう。自分の人生の根幹、基礎をなしてきた音楽の世界という土台が揺らいでいる。
 絶望が結美を苛んでいて、僕に頼りたいんだろう。もし今、そばに結美がいたら、力一杯抱きしめたい。

 全てを知った後でなら、いくらでも支えよう。耳が良くなるなら、結美が嫌がったって、病院だろうがトレーニングだろうが、何だって付き合う。
 今はただ、最悪の可能性が当たっていないことを祈るだけだ。

   ◆

 翌日。僕と結美は駅で待ち合わせをして、二人で病院へ向かった。
 調べた病院は少し遠いところにある。
 僕を見つけた結美は小走りにやって来て、僕の腕の中に収まった。
 よく見えなかったものの、目の周りが腫れていたように思う。
 泣き明かしたのかもしれない。

「逃げなかったね。偉い」
「別れるのは嫌」

 僕の胸に頭を押さえつけ、いやいやをする結美の背に腕を回す。
 安心させようと髪を撫でる。

「怖いだろうけれど、真実を知らなきゃいけない。俺がついてる」
「うん。一緒にいてね」

 そろそろ周りの目が気になり始めたので、僕は結美を離して「行こう」と促す。
 冬のコートの襟に口元を埋め、結美はうなずく。
 僕が歩き出すと、すぐに細い指が絡められた。
 冷たい指を握り返す。
 僕たちはプラットフォームへ続く階段を上がり、電車を待った。

 目的の駅に着くまで、結美は一言も喋らなかった。ただし僕にぴったりと寄り添い、肩に頭を預け、手を繋ぎ続ける。
 本当は肩を抱いてあげたかったが、人の目があるからそうもいかない。
 会話らしいものと言えば、僕が時々励ましの言葉を言って、結美がうなずくくらいだった。

 目的の駅に着く。
 改札を出ると、駅構内にピアノが置かれているのが目にとまった。
 僕が足を止めると、結美も足を止める。

「あれも、父さんが寄贈したピアノ」
「そうなんだ」
「ちょっと弾いていい?」
「辛くない?」
「うん。大丈夫」

 僕の手から結美の手がするりと抜ける。
 ピアノの前に座った結美は少しだけ何かを考えていたが、やがて弾き始めた。
 それは、僕でも知っている有名曲だった。

 ベートーヴェンが作曲した、俗に言う「運命」。

 余りにも有名で物悲しいその旋律を、結美は無表情で奏で続ける。
 いつもなら感情豊かな彼女らしく、音色だけでなく顔の表情も豊かに変化しながら演奏する。
 なのに今は無表情だ。
 そして選曲は「運命」。

 結美は何を表現しようとしているのだろう?
 聴力を失ったベートーヴェンに自分を重ねているのだろうか?
 それとも、運命など信じないという意思表示だろうか?
 一つ言えるのは、結美が奏でるこの曲の旋律は、凄絶な響きを伴っているということ。
 横顔の無表情さがさらに拍車をかける。
 僕は初めて、結美が抱く恐怖の一端に触れた気がした。
 有名なあの旋律の最後を伸ばすだけ伸ばして、結美は全ての音を止めた。
 立ち上がり、僕の方へ歩いてくる。

「大丈夫?」
「ごめん。ちょっとだけ二人きりになりたい」

 うつむき気味でよく見えなかったが、涙声だったので、僕は結美が何を求めているのかを察した。
 僕は結美の手を引いて、手近なファーストフード店に入った。
 飲み物を適当に頼んで、店内の一番奥まった席を探し、結美を奥に座らせる。
 隣に僕が座ると、結美はすぐに抱きついてきた。
 僕の胸に顔を埋め、声を押し殺して泣く。
 僕は結美を抱きしめ、その背を撫でる。

「聞こえないの。今まで聞こえていた音域が、全然……」
「だから辛くないかって聞いたのに」
「確かめたかったの。もしかしたら今なら聞こえるかもしれない。一緒にいたら何か変わるかもしれないと思って。でも何も変わらない。聞こえないままなの」
「自分を傷つけなくていいよ」
「私、怖い。どうなっちゃうの? このまま耳が聞こえなくなるの? それが運命なの?」

 僕は何も答えられず、ただ力強く結美を抱きしめた。
 それしかできない自分が歯がゆい。
 ただ、自分が悔しい。

 その曲が運命と呼ばれる由来は、ベートーヴェンが彼の弟子に「冒頭の四つの音は何を示すのか」と尋ねられ、「このように運命は扉をたたく」と答えたからだと結美に聞いた。
 ならば、あのときに弾く曲として結美が選んだこともまた、僕たち二人の運命が新たな扉を叩いたのかもしれない。

 病院で結美は僕を付添人として診察を受けた。
 いろいろな検査を受けた結果、僕たちに告げられた病名は、想定していた中でも最悪のものだった。

 突発性難聴。

 その病名は僕も調べて知っていたし、原因の特定は困難を極めるということも同時に聞かされた。
 治るかどうかはわからない。治る場合もあるが、最悪の場合、聴力を失うこともあり得る。

 医師からそう知らされた結美は、絶句した。
 覚悟はしていたのだろうが、それを上回るショックだったのだろう。
 一人で立って歩けなくなった結美を僕が支えて診察室を後にしたほどだ。
 帰りの道中でも結美は心ここにあらずといった風で、見ている僕も辛かった。
 せめてもの支えになれればと、細い手を握り続ける。

 僕の部屋に行きたいという結美を拒む理由などなかった。
 玄関のドアを閉めると、結美はその場に崩れ落ち、堰を切ったように号泣し始めた。
 僕は泣きじゃくる結美を何とか立たせ、部屋へ上げる。
 部屋の真ん中で座り込んでしまった結美の隣へ座り、僕は彼女の震える肩を抱く。
 すると途端に結美が僕の腕の中へ飛び込んできた。
 僕は彼女の背を撫で、髪を優しく梳くことで彼女の気持ちを落ち着けようとする。
 形の良い耳が、僕の顔のすぐそばにある。
 しかしこの耳は、音を拾いづらくなっている。

 大丈夫、きっと良くなるなんて、気休めでも言えない。言ってはいけない。
 何の根拠もない慰めの言葉が、どれほど人を傷つけることか。
 まして結美は、小さい頃からプロのピアニストになるべく育てられてきた。本人の希望はどうあれ、その事実は変えられない。
 生きることに絶望している今の結美にかけられる言葉が、この世にどれほどあるだろうか。

 自分の無力さに打ちひしがれる。
 それでも今は結美を支えなければならない。
 一番辛いのは僕ではなく、結美なのだから。

 頭の中では、「運命」のメロディが鳴り続けている。
 結美はどんな思いであの曲を弾いたのだろう?
 運命とは何だろう?

 結美の背を撫でてやりながら、僕は考え続ける。

(続く)


 

 最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

 第四話は29日に更新します。

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