【小説】無音が描く幽玄美 「第四話 二人で一人の芸術家」

執筆者 | 21/06/29 (火) | コラム

『無音が描く幽玄美』(前回までのあらすじ)

 芸大に通う主人公「僕」は、音大に通う女子大生、高家結美とストリートピアノを介して知り合う。
 駅構内に置かれたストリートピアノを弾く彼女の姿をスケッチしていたところ、本人に捕まったのだ。
 嵐のようなペースに戸惑いながらも「僕」は彼女との繋がりを得た。

 彼女を意識する余り、上手く絵が描けなくなった「僕」に、結美は「自分を知って欲しい」と持ち掛ける。
 言葉の真意を掴みきれない「僕」は曖昧な答えを返すものの、結美の怒りに触れる。
 ごまかすことをやめた「僕」は、自らの気持ちを打ち明ける。

 幸せな時間も束の間。
 ある日、「僕」は結美に対し耳の変調を気付く。
 医者にみせることを嫌がる彼女を無理矢理引っ張って行く。
 告げられたのは、突発性難聴という病名だった。
 プロのピアニストになるべく育てられた結美にとって、それは生きる希望を全て失うに等しい病名だった。

(第一話 二人の出会い)
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(第二話 縮まる距離)
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(第三話 消えゆく音)
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 日本画の一つに、水墨画がある。

 紙に墨の濃淡だけで絵を描くというもので、引かれる線は必要最低限しかない。
 それでも完成した絵を見れば、そこに描かれているのが何なのかちゃんとわかる。
 絵の具を使わないから、色は紙の地の色と、墨の黒だけ。

 僕は日本画の中でも、特に水墨画に心惹かれている。昔からそうだったが、結美の耳が聴力を失いつつあると知ったとき、その理由がわかった気がした。

 幽玄の美なのだ。

 これ以上ないほどに色と線を削り、それでいて一服の絵に仕上げる。人の世に諸行無常を見出した昔の日本人が導き出した、日本画に於ける極地ではないかと僕は思うようになった。
 線が引かれていない隙間は、当然ながら紙の地の色だ。だが仕上がった絵を見れば、何も描かれていないそこに人は何かを見出す。

 例えば水墨画の巨匠である雪舟の絵に「紙本墨画秋冬山水図」というのがある。その冬景図は、墨の濃淡で山々や木々、そこに積もる雪を表現している。
 そこには何も描かれていない。しかしその絵を見れば、そこに雪が積もっていると誰しも思うだろう
 無と呼ばれる空間に、日本人は有を、美を見出した。

 そこに僕は心惹かれる。

 その頃から僕の絵は変化を見せ始めた。
 鉛筆画を描く際には線をたくさん引いていた。その線の数を減らし始めた。
 一本の線の濃淡にこだわり始め、そのうちに鉛筆では満足できなくなり、筆と墨を使うようになった。
 雪舟のような巨人には足元にすら及ばない僕だが、彼の開いた境地の一端にでも手をかけられればと思い、絵を描くようになった。
 それはどこかで、結美の世界から音がなくなるという現実と通じる気がしていたからだと思う。

   ◆

 結美の耳は、少しずつ音をなくしていった。
 音が聞こえなくなるにつれ、結美は口数が少なくなり、楽器を演奏しなくなった。表情からも笑顔が消え、いつも落ち込んでいるような、憂鬱そうな顔をしている。
 僕との会話も少なくなり、連絡も途絶えがちになり、ついには自宅から出たがらなくなった。
 僕が送ったメッセージは見ているようだが、返答は減った。
 何より駅構内から、あの美しい旋律を奏でるピアノの音が消えた。

 結美が手首を切った。
 手首だけでなく、指と手のひらをズタズタに切りつけたらしい。
 カッターナイフではなく、包丁を使ったと聞いた。
 つまり傷が深い。場合によってはピアニスト生命が終わるかもしれない。
 発見が早かったから命に別状はないそうだが、手指を動かすことに障害が残るかもしれないと医師は言ったそうだ。
 それらの話を、僕は結美の父の研吾氏から電話で聞かされた。

「入院はしているが、経過を見るためだ。すぐに退院することになる。しかし自宅に置いておくとまた自殺未遂を起こすかもしれない。精神科の病院を探して、心のケアを優先しようと思う」

 通り一遍の言葉を返し続け、研吾氏との電話を終える。
 胸の内にある感情は怒りだ。
 結美の馬鹿野郎。死ぬつもりだったのか。
 死んで何がどうなるんだ。残された家族はもちろん、僕の気持ちはどうなるんだ。
 今、目の前に結美がいたらそんな言葉をぶつけていただろう。同時にそんな言葉をぶつけても結美の聴力が戻るわけがないことも、よくわかっている。

 今の僕には何ができるだろう?
 心身ともに深く傷ついている結美の力になれるような何かとは?

 考える。時間が経つのも忘れて、ひたすら考え続ける。
 ある時、結美を描き続けたスケッチブックが目に留まった。
 僕はそれを手にとって、めくり始める。
 その絵を見ていると、頭の中に音楽が流れ始めた。
 出会った頃の結美が奏でる美しい旋律がよみがえる。
 あれほど感情豊かに音を奏でるピアニストを、僕は結美以外に知らない。
 ドラム演奏は余り見たことがないけれど、それでも結美は楽しそうに演奏していたように思う。
 ピアノと比べて音の変化に乏しい楽器ではあるものの、それでも結美は楽しそうだった。
 もしかして結美も心のどこかでは、ドラムという打楽器の音の中に幽玄の美を見出していたのかもしれない。
 そう考えれば、僕にできることは一つしかない。

 紙と墨を取り出す。
 僕はスケッチブックを目の前に広げ、筆を取った。

   ◆

 結美が退院して数日後。
 どうしても会いたいと結美に連絡を入れ、部屋まで来てもらった。
 憔悴しきった結美は生気の抜け落ちた顔をしている。
 艶をたたえていた黒髪も傷んでいたし、何より手と手首に巻かれた包帯が痛々しい。
 僕は結美と腕を組んで部屋まで歩いた。結美は沈んだ面持ちで少し遅れて僕の隣を歩く。

 部屋に招き入れて座ってもらう。お茶を用意して、僕は結美の隣に座った。
 湯呑に手を伸ばそうとしない結美に、僕は彼女の両手を取って湯呑を包むように持たせた。
 そうしてから僕は片手で結美の肩を叩き、もう片方の手で自分の湯呑を持った。
 結美がちらりとこちらを見る。
 僕は自分が持つ湯呑を掲げて「飲もう」と示して見せた。
 一口飲んで見せる。
 結美も諦めたように湯呑を口に運ぶ。
 一口だけだけれど、飲んでくれた。
 僕は嬉しくなって結美の頭を撫でる。
 照れてはにかんで、結美はうつむく。

 立ち上がって、僕は一枚の紙を持ってきた。結美の隣に座り直し、その紙を広げて見せる。
 結美はそれを見てすぐに顔を背けた。

 僕がそこに描いたのは、ピアノを弾く結美の姿だった。ただし鉛筆画ではなく、水墨画だ。
 引く線の数を極限まで減らし、墨の濃淡で表現したピアニストの結美の絵だ。

 結美の肩が震え始める。泣いているのだろうか。残酷なことをすると思っているのかもしれない。
 でも違う。僕が伝えたいのは過去の美しさじゃない。

 僕はスマホを手に取り、メッセージアプリを起動して言葉を書き連ね、結美に向けて送信する。
 結美がスマホを取り出し、それを見る。はっとした顔で僕を振り返ったその頬には、涙の筋があった。
 僕は一つうなずいて見せ、今度は雪舟の絵を検索して結美に送る。
 結美もそれを見る。「これが何?」 という顔で画面と僕の顔を交互に見るので、僕は次にある言葉を検索する。

 幽玄。

 その検索結果を結美に送信し、僕はメッセージアプリを開き直して言葉を打つ。
 結美はじっとスマホの画面を見つめている。
 その間にも僕は次々とメッセージを送り続ける。

 日本人は無の中に有を見出し、そこに美を感じ取ったんだ。
 それを絵で表現したのが水墨画。その大家が雪舟だ。
 同じことを音楽でも表現できないかな?
 結美は確かに、今、聴力を失いつつある。無音の世界に行こうとしている。
 けれども、そこには新しい世界が広がっているんじゃないかな?
 音がはっきりと聞こえていた頃の結美には、ピアノの鍵盤を押せば出る音は決まった音でしかなかったはず。
 例えば「ド」の音が出る鍵盤を押せば、そこから出る音は「ド」という高さの音でしかなかったはずだ。
 それが音の聞こえる世界に生きていた頃の結美の音だとすれば、音の無い世界に行こうとしている今の結美にとって、その音はただの音の高さを表す「ド」なのかな?
 俺には今の結美が奏でる音は、きっと以前の結美では表現できなかったものになると思えるよ。
 自分の中から湧き上がる新しい音を表現してみようよ。
 結美に現実の音は聞こえないかもしれない。でも俺には結美の奏でる音は聞こえる。
 結美の奏でる音を俺が聞いて、それを絵にする。
 無音の世界の結美が奏でる幽玄の音を、俺が水墨画っていう幽玄の絵で表現して見せる。
 結美は今まで聞こえていた音は失っても、幽玄の音を手に入れたんだ。
 無音の幽玄の美を、俺が描く。
 一人では表現できない音楽を、俺と一緒に表現しよう。
 それはきっと、今の、そしてこれからの結美にしか表現できない。
 世界でたった一つの音楽になると思うよ。それができるのは俺と結美しかいない。

 結美は頬を伝ってこぼれ落ちる涙を拭いもせずに、僕が送り続けるメッセージを見つめている。
 最後の文を送り終えた僕は、黙って結美の横顔を眺める。
 結美は動かない。スマホの画面に涙が落ちても、画面が暗転しても。

 しばらくして結美は、一度顔を背けた僕の絵に視線を向けた。
 包帯を巻いた両手で、その絵を取る。
 愛おしそうな手付きで、絵と線を撫でている。
 僕は結美の肩を抱いてこちらに引き寄せた。
 頭を僕に預けても、結美はなお絵を撫でている。そこに描かれたピアノと、自分を。

 やがて結美が僕の顔を見上げた。涙は今も、少しやつれた彼女の頬を伝い落ちている。
 僕は結美の髪を耳にかけてやる。
 その時に気付いた。

 唇が荒れている。

 僕は結美の涙を親指で拭って、そのまま唇をなぞった。
 結美はされるがままだ。
 上下の唇をなぞってから、僕はたまらず唇を重ねた。
 荒れた唇と微かに濡れた感触が愛おしい。
 結美も両腕を僕の背に回す。

「あ……」

 息苦しくなって離れた結美の唇から、吐息と共に言葉が漏れる。

「ああ……」

 僕の背に伝わる力が強くなる。

「ああ……!!」

 大泣きしたあのときのように、結美は声を限りにして泣く。
 だが、あの時の涙とは意味が違うと僕は思う。
 かつて絶望を意味したそれは、今は希望の涙に変わっているだろう。
 そうあって欲しいという僕の願望でしかないが、なぜか僕は結美もそう思っていると確信している。
 子供のように泣きじゃくる結美の背を、僕は優しく撫で続けた。

   ◆

 それから間もなく、結美は研吾氏とともに海外へ旅立った。
 耳の治療のためだ。

 見送りに行ったときの結美は、余り暗い顔をしていなかった。
 僕は旅の手土産にと、これまで描き溜めてきた結美の絵を全部渡した。
 それから、結美以外の絵もいくつか。
 結美は嬉しそうにそれを受け取り、笑ってくれた。
 僕と結美は最後にきつく抱き合い、手を振って別れた。

 耳が完全に聞こえなくなっても、結美はきっと絶望しないだろう。
 無音の中にある幽玄の美を知ったのだから。
 その美を絵に描き起こすのが僕の役割なのだから。
 僕たちは二人で一人の芸術家なのだから。

 空の彼方へ消えゆく飛行機に手を振りながら、僕は海外留学を決めた。
 結美に会いに行くためだ。
 日本画、水墨画がメインだが、海外の絵の技術にも参考になるものがあると思う。
 結美と二人で作り上げる音楽と絵は、水墨画という範疇で収めてはいけない。
 あらゆるジャンルの絵の技術を貪欲に取り入れながら、それでいて線の数を極限まで削り、墨の濃淡で表現する。
 そういう絵こそが、僕と結美の作る音楽だ。

 僕らの前に広がるのは絶望の荒野ではない。
 まだ誰も歩いたことのない、希望の原野だ。

 完


 今回で完結です。
 最後までお読み頂き、ありがとうございます。

執筆者 | 21/06/29 (火) | コラム


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