どうも皆さんこんにちは。2020年6月入会の田畑達也(たばたつ)です。
この記事は、私が学生時代に「小学校や中学校みたいに夏休みに作文を書いて作文コンクールに出してみたい!!」と幼児退行した結果生まれた、嘔吐物のような文字壁です。
(つまり、もう4,5年前の文章になります)
確かこの時期、大学では「アクティブ・ラーニング」がもてはやされていて、入学したばかりの私はろくにインプットがないまま(機会も少ないまま)アウトプットすることを要求されている感覚を持っていました。
そして、若いV系バンドマンのように、社会全体の歪みに対して嫌悪感を抱くようになりました。書き終わってスッキリしたままUSBの中で眠りに付き、最近発掘されました。
今回、学園祭も終わって少し経ったこのタイミングで、お焚き上げの意味も含めて混沌の海に投棄します。どうかこの海中に漂うプランクトンたちの栄養となりますように。水面で泳いでる人たちの目には留まらないように。。。
現代社会は、人々を未来志向に仕向けることに長けている。「個性豊かで寛容な社会」、「1億総活躍」、「学生起業」、「地域活性化」。日々学生生活を送るだけで、こんなにもたくさんの標語に接するものか、と驚く。
教室では、個々人が輝ける「楽園」とも言える現代社会の深い影は無視され、私達には行動力の大切さが説かれている。まるで、自らの尻拭いを懇願しているようにも見える。
周囲を見渡すと、実に多様な仲間がいる。起業した者、社会の問題を声高に叫ぶ者、問題を克服するため行動を起こそうとする者、一歩引いた視点から癒しを探す者、そして、彼らに触発されたのはよいものの、自らの道をうまく見出だせていない者。誰も皆、好きなように、輝く未来を描いている。
周囲の人たちからも、教室でも、SNSでも、私達は行動することを強く求められる。この時代である。ひとりひとりに光をあてる現代にあって、輝くようにと仕込まれるのも無理はない。
しかし、足元を見下ろすとどうか。「行動力」に対して勤勉であることを、社会から強制され、苦し紛れの使命感にしがみつく。諦念を抱くことも許されず、輝けなければ、砕かれる。そんな者たちが、身勝手にも光りを欲しているのである。
周囲を巻き込む輝かしい行動力も、ここまでくれば安い喜劇。行動者に触発されても自分の道を見出だせないと、迷走している者たちが最も哀れである。彼らにできるのは、行動者に消費されることのみであろう。これぞ現代社会の闇と断ずることもできようが、自分を省みると、許されざる寡黙を貫くしかない。
自己主張こそ個々人が輝く道、輝かない者に存在価値は無いに等しく、自分だけの未来像を描くため、仲間たちと語り合う。
人生最後の青春が美しく映るこの情景も、見方を変えれば傷の舐め合いである。
生産性を求めるあまり、受動的に未来を描かされてはいないだろうか。そんな違和感も時代に合わないと言われれば、この作文に価値はない。
個人的には、最後の1行が推しです笑
読んでくれてありがとう。