閉じた部屋から窓越しに
どうも、引きこもりコラムニストの最内翔です。
こちらでは朝のHRでの話題について、引きこもり視点で語っていくコラムです。
今日の話題は
・権力は関係性に依って生まれるもの。だから誰しも権力を持ちうる。
・権力を持つと自分勝手な事は出来なくて、求められる役割を全うしなければならなくなる。
・お喋りタイムの挙手時、手を振ったり背景でアピールするのは今後は考慮しないようにしていきたい。
・何かしらの企画とか提案も、お喋りタイム外で試行錯誤しよう!
ざっくりとこんな感じでした。
ここからはHRを聞いた上での著者の感想になります。
今日は権力についての話でしたね。個人的にはとても面白いHRでした。
HR中、
「権力は役割に付随して、誰にでも発生しうる。そんな時何をすればいいか、それは求められている役割を全うすることです」
というお話がありましたよね。同時に本からの引用で
「そのことを理解する一つの手助けとして、演劇で、与えられた役を演じきってみるのがいい」
というお話もありました。
これ、とても納得がいくんですよね。
私は大学在学時、サークルは演劇サークルに入ってました。
でもそれよりも今日は私の好きな「TRPG」というゲームを例に話していきたいと思います。
TRPGってなんぞや、という方も多いとは思うのですが、物凄く雑に言えば「ルールの決まったごっこ遊び」なんですね。
3~5人で集まって、内一人がGM(ゲームマスター),或いはKP(キーパー)などと呼ばれる進行役を務め、残りのプレイヤーが自分の分身となるキャラクターを動かし演じて、進行役の提示した状況の中で動き、物語を紡いでいく。
そういった創造的なコミュニケーションのゲームなのです。
TRPGについては語り始めるとキリがないのですが、今回の主題はこの進行役(以後この記事内ではGMと呼称)について。
TRPGの大原則として、「『GMを含めた』全員が、全員で楽しむことを目標とした対等な仲間である」というものがあります。
多くの場合このGMという役職は、プレイヤー達の障害となる敵を用意し、そのキャラクターを動かし演じたりはしますが断じて敵ではありません。
GMの描写した状況は物語中では事実となりますが神ではありません。
プレイヤーに比べ準備に必要な労力は段違いに多いですが別に偉くはありません。
TRPGを楽しむ仲間の中で、そういった役割を担っているだけなのですね。
事実同じグループ内で、「今回はGMやってもらったから、次は私がGMやるよ」といった風に持ち回りでGMを交替することが多々あります。
ですがそういった、対等な立場の中から割り当てられた役割であっても、ゲーム中は他のプレイヤーに比べて大きな権限、権力を持ちます。
現実で路上で全裸になることが「不可能では」ないのと同様に。現実で空中二段ジャンプを試みるのと同様に。
ゲーム内でプレイヤーは自分の分身たるキャラクターを自由に動かして試みることが出来ます。究極的にはキャラクターのどんな行動も言うのは自由なんです。コンピューターゲームと違って行動を選択肢によって指定されませんから。
ですが必ずしも言ったもの勝ちにはならないのは、このGMという存在がいるからです。
GMはルールブックと呼ばれる六法全書的な本に書かれたルールに則って、同時に提示されている状況に則して、そのプレイヤーの行動や試みの結果を決定する権限を持ちます。
街中で裸になれば治安部隊がやってきたと描写されるでしょうし、そういった特殊能力もなく空中二段ジャンプを試みても出来ないと却下されるでしょう。
同時にGMの決定は、基本的にはゲーム内では現実として扱われるので、極論「あなたはこの部屋から出ようとしましたが、何もない所で躓き転ぶので一生出られません」等と嫌いなプレイヤーの行動を制限することも出来てしまいます。
勿論それが何らかの理由(例えば見えてないけどドアの前に絶対に滑る床があるので、それを排除しないと進めない等)があるのであれば公平なのですが、何の理由も対処法もなくそんな描写をしてしまえば、当然プレイヤーとしては不満ですよね?
何故不満に思うのか。それは基本に立ち返ってGMという権力者に求められている役割を考えればすぐに分かります。
「全員が、全員で楽しむことを目標とした仲間であり、その目標をスムーズに達成するための進行役」
万一、GMがこの役割を全うせず好き勝手やり始めたのなら。プレイヤーにはそのゲームを途中で抜ける権利があります。
TRPGをやったことが無い人にも分かり易く書けているかは不安ですが、物凄くまとめて書くと、
「持ち回りでやるような大きな権力を持つ役割であっても、いや、であるからこそ、皆が楽しむために権力を行使しなければならない」
そのことを、とあるゲームを例に解説していた感じです。
同じく権力についての話題ですが今回はもう一つ、中田敦彦さんのようなインフルエンサーの「私人」と「公人」の割合についても思った事があったので、長くはなりますが触れたいと思います。
突然ですが、PROGRESSに入る前に危惧していたこと。同時に今そうでないが故に安心してPROGRESSに居続けたいと思えることが一つあります。
それは、
「中田敦彦さんが『教祖』になってない」ことです。
インフルエンサーについて言及される時、往々にして『教祖』と揶揄されることが多いかと思います。
これは勿論元来の宗教の開祖という意味ではなく、私の解釈が間違っていなければ「特定の人物を全肯定するファン集団に祀り上げられた、周囲にストッパーを持たないインフルエンサー」を表現していると思われます。
入会前からPROGRESSは「否定の無い優しい世界なんだろうな」とは思っていました。
ただ否定がない環境というのは、往々にしてブレーキの無い全肯定の溢れた環境になる可能性も孕んだもの。
そして人というのは、誰にも否定されず沢山の人に肯定される環境になると増長して天狗になり、ともすれば『教祖』になりかねないもの。
特に中田敦彦さんは本質としては結構苛烈な部分を持つ人だと思っていたので、周囲を顧みない自己肯定の塊になってないかを危惧していました。
ただYouTube大学もPROGRESSも日本屈指のものになってきたのに、そうした部分が垣間見えなかったので入会を決意出来ました。
そしてここ一週間程朝のHRを視聴していて驚いた、そして何回も聞いたこの台詞。
「あっちゃんの顔ドアップで嬉しい! とかいう人の意見は全無視で。そうやってPROGRESSは成長してきたんですから」
この点は、本当に凄いと尊敬します。流石様々な本で勉強されてるだけある、分かってらっしゃる、と。(何様
ご自身で語られていた通り、「あっちゃんのトークってなんか宗教っぽい」というイメージは、正直ぱっと見皆持つと思います。
それくらい中田敦彦さんのトークには有無を言わせぬ勢いと説得力があって、同時に中田敦彦さんは他人に従わず他人を引き連れるイメージがある。
ですが、これは勝手な私個人の分析なのですが、中田敦彦さんは一見「自分の意見を絶対に曲げない人物」に見えてその実「合理的であるならすぐに自分の意見を変える人物」なんだと思います。
少し語弊のある表現を恐れずに言えば、意外と「自分の意見」って無いんですよね。沢山の本を読んで、合理的だと思えばすぐに考え方もライフスタイルも変えていく。
恐らく中田敦彦さんの絶対に変わらない意見って、「とにかく祭りがしたい」ってことくらいじゃないでしょうか。
でもある意味で私は「自分の意見を持っていない」からこそ、安心して見ていられる部分がある。
やっぱり中田敦彦さんのトークは怖いんですよ。
『中田敦彦さんの独自の考えとか思想があったら引っ張られそうで』
だけど中田敦彦さんの考えは極めて合理的で、私的なバイアスがかなり少ない。
その上で客観的に、行き過ぎた全肯定の意見を見極め、切り捨てられる。
これがもし逆に、自分の意見を強く持っていて、溢れた全肯定に飲み込まれていたら、「私人」のままで振舞っていたらどうなっていたでしょうか?
再生回数がその方が伸びるという素晴らしい口実もあって、自分の考えを過激な所まで話してしまい、いずれ「教祖」と揶揄され炎上していたのではないでしょうか(どっかで見た
或いは自分の目標に向けて周囲を巻き込もうとして、独善的になり過ぎた結果求心力を失っていっていたのではないでしょうか(どっかで見た
勿論、所詮PROGRESS入会半月ほどの新参者の一分析ですし、私が中田敦彦さんの何を知ってるんだと言われてもYouTube大学と朝のHRの少しです、とし言えないのですが。
少なくとも個人的には中田敦彦さんは「公人」としての自分をそういう風に規定して、そう見えるように振る舞ってらっしゃるんじゃないかなと感じました。
そしてだからこそ、ここまでPROGRESSが拡大し、これからも拡大していくのではないかと感じています。
勿論ご自身が仰っていたように、公人として振舞うのは窮屈極まりないでしょうが、まだまだwindowsを隔てた距離の遠い一会員としては、無責任にそのまま頑張って欲しいなーと願うばかりです。
今日のHRの話題が個人的に特に面白い話題だったので長くなってしまいましたが、今日はここまで。
いつか、「生きてて楽しい!」と笑顔で言えるように。
明日もまた、投稿したいと思いますので良かったら是非またお越しください!