アフガニスタンからの退避①

執筆者 | 21/09/16 (木) | コラム

PROGRESSの皆さまこんにちは。
2020年6月入会の藤田伊与と申します。
配信などはせず、廊下やコメント欄から楽しく参加させていただいております。

私は2016年に神戸からカリフォルニアへ引っ越してきました。

神戸に住んでいた2014年頃のことです。

私の夫が日本の大学で講師をしてたので、いろんな国からの留学生と会う機会がありました。

アフガニスタンからの留学生(JICAの制度を使った国費留学生)も多くいて、一緒にモノレールに乗ってうち子供も一緒に大阪の万博に遊びに行ったりしました。

アフガニスタンのことはニュースで怖い話をいっぱい聞いていたので、実際に会うアフガン人に興味津々…。

何も知らなかったので、「治安どう?」とか「女性は全身隠さないといけないの?」とか聞きました。
その時は「もう治安は安定してる」し「女性もおしゃれして外に出られる」という答えで、へーそうなんだって思いました。

アフガン留学生の中にヨーロッパ人みたいな顔立ちの人と東アジア人っぽい顔立ち(親戚にいそうな)の人がいて面白いねーっという内容の話してたのを覚えてます。

ヨーロッパ人ぽい顔立ちの人が、三宮(神戸の繁華街)でおばあさんに「あんた、なに人?」って聞かれて「アフガニスタン人です」って何度言っても「あー、アメリカ人ね」と納得してそれ以上聞く耳持たなかったって話も面くて印象に残っています。

先月タリバンによりカブールが陥落した(8/15)というのをニュースで知り、夫が元教え子(今は友達)を心配して連絡すると、状況は深刻でした。

A氏B氏C氏の3人と連絡を取ったのですが、タリバンから命を狙われてるということで、毎日居場所を変えて隠れている状態でした。

命を狙われる理由は、3人とも旧政府要職にあったので、タリバンからすると裏切り者です。

そして日本で教育を受けたので、欧米の価値観に洗脳された、非イスラム教信者とみなされます。

A氏は職業柄、以前かタリバンから接触を受け、要求を飲まないと殺すと脅されていました。その時はカブールにいれば安全だったので、タリバンの要求を断り続けていましたが、今は報復の対象になるかもしれません。

C氏はタリバンが迫害してきた少数民族ハザラ人です。ハザラ人はモンゴル系民族で、外見からすぐハザラ人だと分かります。

皆さんニュース見てご存知だと思いますが、日本政府の決定でカブールに取り残された日本人、そして大使館とJICA現地職員の退避支援のために自衛隊機がカブールへ派遣されることになりました。

その退避オペレーション(8/26)直前の8/24に元留学生も条件を満たせば自衛隊機で退避ができると連絡がありました。

その条件というのは、自衛隊機に乗れるのは本人だけで家族は帯同できない、日本への退避は一時的なもの、そして日本での生活全てと経済的な保証してくれるスポンサーを見つけることでした。

妻と幼い子供を置いていくのは酷なことでそれで退避を諦めた人も多くいましたが、友人たちはハイリスクなのでとにかく生き延びる道を選びました。

私は日本にいないので保証人になることができません。

難民支援団体いくつか連絡しましたが、こういった団体は海外にいる難民が日本に来ることを支援するのは業務にないと学びました。(日本にもうすでにいる難民の支援をされている)

神戸に住んでた時のパパ友に、たまにFacebookに仕事とは関係のない活動を載せてる方がいました。

パパ友の奥さんが以前話してくれたのですが、パパ友は学生の時金髪だったというのを思い出して、こんなクレイジーなお願い聞いてくれるかもと思い連絡すると快く見ず知らずの3人の保証人になってくれました。

とにかく時間がなく、命がかかってるので断りづらいお願いだったとは思います。

保証人が見つかって数時間後に東京の外務省職員と、神戸の身元保証人(パパ友)、退避希望者であるアフガン人3人、元留学生と面識のある私とで面接がありました。

そしてなんとか自衛隊機待避500人のリストに滑り込むことができたのです。

8月26日当日、自衛隊機に乗る人の携帯に集合場所情報が送られ、外務省が手配したバスに乗り込み、カブール空港近くの大規模施設の駐車場で他のバスも集まってカブール空港ゲートに入る順番を待っていました。

その時運悪くIS-Kによる空港ゲート近くでの大規模爆破テロが起こり、空港へのゲートは閉じられてしまいました。

空港へ入ることができないのでいったん解散となり、外務省からの今後について連絡待ちとなりました。

自衛隊機は隣国パキスタンのイスラマバード空港へ移動しそこで待機となりました。

その時の私の夫の判断は、治安は悪化の一途を辿るので自衛隊機がカブール空港に戻ることはもうあり得ないから、今すぐ車を手配してパキスタン国境を目指した方が良いと陸路での退避を勧めました。

それを聞いた時、私は恐ろしくて震えました。
そんなこと言って、もし陸路での移動の最中に何かあったらどうすんの。

3氏の判断はまだ自衛隊機がイスラマバードで待機していたので、それに望みを託してカブールにとどまり外務省からの連絡を待つことにしました。

そうこうしてるうちに8月末を迎え、アメリカ軍が(大量の武器と車両を残して)撤収しました。

そして自衛隊機もパキスタンから帰国しました。

結局自衛隊機がカブールに戻ることはなく、待てば待つほどパキスタン国境を目指す人が増え、開いていた国境もカブールから近い順に閉じられていったのでした。

今(9月15日時点)日本に退避することができた人たちは早めに陸路でパキスタンへ逃げた人たちでした。

現在日本政府がタリバンと交渉してますが、タリバンが政府となった交渉はいろんな面で難航してると思います。

私の想像ですが、アフガニスタンは鉱物資源が豊富なので日本としては良い関係を保ちたい、だから例えばタリバン政府が自国民を連れて行かないでって言ってたとしたら、日本はそれに従うしかないだろうなとか。

友人たちが前職に復帰できたら良いですが、外国で教育を受けているので無理です。

タリバン政府は公務員に職場に戻るよう通達していますが、友人たちはタリバンを信用していません。

旧政府の国家安全局に勤めてたCさんの従兄弟は、数日前タリバンによって殺害されるという悲劇がありました。

友人たちにアフガニスタンにとどまるという選択はないのです。

自衛隊機に乗るはずだった退避希望者でも、今は正式なビザを申請し直さないと日本に入国できません。

カブールに日本大使館はもうありませんので、他国へ出国し日本の在外公館へ出向いてビザの申請をする必要があります。

それはとてもハードルの高いことです。

ここまで日本への入国を難しくしているのはなぜなんだろうと考えてみました。

タリバンとの交渉が難航している、コロナで海外からの入国制限をしている、日本は大勢の難民を受け入れた前例がない、日本国民の民意として難民受け入れには反対なのかなと想像してます。

友人たちは日本とのつながりが一番強く、留学先だった大学や保証人がいるということで受け入れられる態勢が整っているので日本への退避を目指していますが、最終的にはアメリカへの移住を考えています。

カリフォルニア州には大きなアフガンコミュニティがありますし、友人たちは英語を話せるので、生活もしやすいと思います。

でも米軍機で退避した何万のアフガン人たちですら、市民権および永住権保持者以外はまだアメリカ本土の土を踏んでいないのです。
米国外の米軍基地にある収容所で待機していて、1年かかるとも言われているビザ発給を待っている状態だそうです。

これからどうなるか分かりません。

自分の命を狙う母国政府から逃れるために、他国へ行くということが難しいというのを目の当たりにしています。

いろんな国のいろんな方々に援助を求め、助けてもらってます。
それぞれの人ができるパートは小さくても、それはどれもが不可欠で全体が繋がるとやっと物事が動き出すんだと思います。

またその後どうなったかコラムに書けたら書こうと思ってるので、タイトルに①を付けました。

執筆者 | 21/09/16 (木) | コラム


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