こんにちは!キャシーこと南です。
先日のHRで、あっちゃんがやさしいコミュニティにすることを明言してましたね!あくまで、今のところはこの方針でいくよ、というお話でしたが、弱者に優しい社会を作り上げて世界から注目されている地域があります。タイトルでネタバレですが、台湾ですね。
そんなわけで今回は、間違いなく21世紀を代表する天才であるオードリー・タンの著作を紹介したいと思います。
*以下の内容は、オードリーの著書である「デジタルとAIの未来を語る」全編を私が大幅に要約・再構成したものです。著書は、平易な言葉を用いて流れるような文体でまとまっており、章立ての必要がないほどに読みやすい文章ですので、是非手にとってご覧ください。また、「」内は、すべて同書より引用した部分です。
オードリー・タンとは
オードリー・タンとは、現在台湾のデジタル担当政務委員を務める人物です。
日本では、東京都コロナ対策サイトのシステム改善を自ら行ってくれたことで人気に火がつきました。まずは、その経歴からざっくりとご紹介します。
生まれつき心室中核欠損症という心臓の病気で体が弱く、手術で取り除くまで自由に行動することができなかったそうです。学校でいじめに遭って転校を繰り返し、6つの小学校に通い、14歳のとき自学したいと考え中学を退学します。その頃にはすでにネットを通じていろんな人とコミュニケーションをとっており、15歳で起業、18歳で渡米しシリコンバレーでソフトウェア会社を立ちあげ、台湾の中央研究院とも仕事をします。
21歳の頃にドイツに渡り、天安門事件に関与した学生たちと政治について語り、33歳で「ひまわり学生運動」をネットを使って援助します。また、このころアップルのSiriの開発に携わるなど、複数の企業のデジタル顧問として活躍しました。そして、35歳で史上最年少で行政院(内閣)に入閣し、コロナ禍においてマスク在庫管理システムを構築し、初期の感染拡大防止に貢献しました。
ここまでで既に天才と呼ぶにふさわしい感じが漂っていますが、もっとパーソナルな部分も著書で紹介してくれています。
オードリーは、父からは「クリティカルシンキング(批判的思考法)」(「証拠に基づき論理的かつ偏りなく捉えるとともに、推論過程を意識的に吟味する反省的な思考法」)を学び、母からは「クリエイティブシンキング」(「既存の方や分類にとらわれずに自分の方向性を見つけていく」思考法)を学んだと言います。
また、オードリーの性自認は「無」。成長期における男性ホルモンの濃度が80歳の男性と同レベルで、20歳の頃検査すると、大体男女の中間であることが分かったのだそうです。「結局のところ、私は男女それぞれのの思春期を2〜3年ずつ経験しているのですが、一般的な男性や女性ほど、完全に男女が分離しているわけではな」いのだそうです。24歳の時にトランスジェンダーであることを公表し、女性への性別移行を開始しました(そのため、以下の文中ではオードリーを指す指示代名詞を「彼女」とさせていただきます)。
ざっとした経歴を見るだけでもわかる、オードリーの才能とマイノリティぶりですが、そんな彼女が思い描くデジタルと民主主義とはどのようなものなのでしょうか。
デジタル民主主義
台湾では、vTaiwanへの書き込みが発端となり、プラスチックストローを使用することを法律で禁止しました。vTaiwanとは、オンラインで法律を討論することができるプラットフォームで、オードリーが構築に参加したものです。そのvTaiwanへ、「I love elephant and elephants loves me」というハンドルネームの人から、プラスチック製の皿とストローの段階的な使用禁止を求める書き込みがあったのです。後に、この書き込みをしたのが16歳の女子高生であることがわかり、大きなニュースになりましたね。この書き込みに対しては、請願に必要な署名がすぐに集まったのだそうで、プラスチック製品に対する環境への影響を懸念している国民が多くいたことがわかります。
ある施策に対し多くの人が賛同していたとしても、それをどう政府に伝えて良いかわからなければ意見を述べる機会さえありません。間接民主主義は代表者が人々の意見を代弁するものですから、どうしても意見の拾い上げが難しくなります。代表者に清き1票を投じた有権者の意見のみ採用されては困りますよね。オードリー曰く、「私は、『国民の意見が伝わりにくい』とされる間接民主主義の弱点を、インターネットなどの力により、誰もが政治参加をしやすい環境に変えていこうとしているのです。」
デジタルの力をいかんなく発揮できる己の才能を、人々の意見の吸い上げのために使い、その結果高校生が国を動かしたわけです。
マイノリティということ
さて、筆者は先ほど「多くの人が賛同していたとしても」、という表現を用いましたが、もちろん民主主義は多数決原理ではありません。オードリーは、少数派の意見の吸い上げにも意識を注いでいます。彼女自身がマイノリティであるので、マイノリティ独特の目線がよく理解できるようなのです。
台湾には、オードリーが構築した新型コロナウイルスのホットラインがありますが、そこに「自分の息子がピンクのマスクをしていたら、学校で笑われて恥ずかしい思いをした」という母親からの悩みが寄せられました。もし、これが日本の出来事であったならば、おそらくこの意見は無視されていたでしょう。台湾で「その訴えを聞いた中央感染症指揮センターの指揮官たちは、翌日の記者会見に全員がピンクのマスクをして臨」んだのだそうです。そして、報道陣に向かって「『ピンクは良い色ですよ』と語りかけた」ということです。「その結果、SNS 上では、多くの台湾企業や個人が企業ロゴやプロフィール画像の背景をピンクに塗り替えて、政府を支持する動きまで出てきました」。
一見すると、マスクの普及にもコロナ対策にも何ら影響はなさそうです。少数派の意見を何でもかんでも取り上げていては、些末な意見に翻弄されることになりますから、大事な意見だけを抽出することも重要だと考えます。けれど、もしこの意見が無視されれば、少年はその小さな胸の中をからかわれた悲しさでいっぱいにしなければなりませんし、同じ目に遭う子どもも出てくるかもしれません。きっと、指揮官たちはきちんと対策すべき課題だと考えたのでしょう。
ネットの力を借りて、マイノリティかつ有権者ですらない人物の意見の吸い上げと対策を講じたのです。何だか台湾がうらやましくなってしまいますね。
「傾聴」と民主主義の実践
意見の吸い上げ、と何度も書いていますが、オードリーは「小さな声をすくい上げて社会を前進させていくために」パブリック・デジタル・イノベーション・スペース(略称PDIS)を創設しています。PDISでは、「直面している社会問題や環境問題の解決に向けて、みんなで力を合わせて取り組む『コラボ会議(協作会議)』と呼ばれる会議を開催しています」。 オードリーは、人の話を聞くことが好きだ、と言っていますが、PDISでは会議の議題を持ち込んだ発起人のヒアリングにはじまり、議題に賛同の署名をしてくれた5000人(2ヶ月以内に5000人が賛同した場合には、必ず政府が政策に反映するというルールがある)とネット上でミーティングを行います。また、とある案件については、5000人の中から志願者を募り「彼らに私たちがまとめたマインドマップを見てもらい、事実と感情を分け、実現可能なアドバイスを行いながら、具体的な後世を一緒に考えて報告書を作成し」たそうです。傾聴することではじまり、さらに傾聴を重ねています。少なくとも5000人に対して傾聴したわけですね。
この傾聴力もさることながら、オードリーがさらっと書いている「事実と感情を分けて」という部分に感嘆しました。
筆者は、法律関係の仕事をしているので生活や仕事上の相談をよく受けるのですが、相談者は感情が先走り事実関係を的確に話すこととはできません。それは、法的な相談だからということではなく、人間が感情の生き物だからです。けれど、相談を受ける側は、事実と感情を分け、また事実の中でも特筆すべきものとそうでないものを選り分けなければなりません。人の感情に寄り添うことは大切ですが、一方の意見や信頼する者に肩入れをして冷静な判断を欠いてはいけません。圧倒的知識と経験則がなければ、これは難しい作業です。
ただ、あくまでオードリーが大事にしてるのは傾聴です。
先に筆者が述べた「とある案件」とは、G6PD異常症のことです。G6PD異常症患者は人口割合で言えばマイノリティですが、死に至ることもある疾患です。このマイノリティの意見が傾聴されたことで、現在台湾では疾患の原因となる防虫剤の使用が法律で禁止されています。マイノリティかつ弱者である特定疾患患者の意見が採用され、見事に住み良いコミュニティの構築へとつながったわけです。
「インクルージョン」
オードリーは、本書のなかで「インクルージョン」「寛容の精神」という言葉を多用します。ここでいう「インクルージョン」とは、誰も置き去りにしないことです。多種多様な人々が生きているのだから、「イノベーションとは、より弱い存在の人たちに優先して提供されるべき」と言います。また、「わずかな部分あるいは少人数のためのイノベーションによって弱者を犠牲にしてはならない」と言っています。
すべての人にとって住み良いコミュニティとは、弱者にとって心地良い空間ではないでしょうか。オードリーは、「都市の設計を考える場合、『軽度の認知症のひとに優しい街が最も良いのではないか』」と言います。弱者の立場からものを見て街の設計を考える。まさしくインクルージョンと寛容の精神の現れだと思います。
筆者としては、先に引用した部分で「少人数」と「弱者」を同義としていないところも重要と思いました。少人数とはマイノリティですが、マイノリティは必ずしも弱者とは限りませんし、逆もまたしかりです。例えば日本でAB型はマイノリティですが直ちに弱者とは言えませんし、お年寄りは全人口の約3割を占める多数派ですが弱者であることも多いです。マイノリティの意見を傾聴すればより良い社会になるというような単純な構造ではないことも、覚えておきたいです。
あとがき
とにかく、オードリーという人は、大多数の意見を傾聴し弱者の意見を拾い上げた上で、自身の(AIに関する)知識を総動員してより良い民主主義社会を作ろうとしている人です。公益を仕事にしているのです。よっぽど思い上がった人物でない限り、自分はこれができていると思う人はいないでしょう。彼女の魅力が少しでも伝われば幸いです。
本書の要はAIの役割と未来についてなのですが、今回は誌面の都合上割愛させていただきました。他にも、民主主義の健全な発展のためには、美的感覚・美意識が必要なことなど、お伝えしたいことは山のようにあるのですが、そこはぜひ本を手に取っていただきたいです。オードリーの知的レベルに筆者の頭がついていっていないので、このまとめはうまくいっていません。ただ、読んでみればさらさらと最後まで読めてしまうので、尚更良質な本だと思います。日本向けに発売されたこともあって、ドラえもんや攻殻機動隊、エヴァンゲリオンなどの、日本の有名アニメを喩えに出してわかりやすく話が展開されているところも魅力です。
筆者の感想を一言で表すならば、”オードリーは実生活ではとても難しい局面の判断をさらりとやっているのではないか”ということに尽きます。本文中に記載した、弱者とはかならずしもマイノリティではないし、弱者の感情面に寄り添いすぎることもよろしくない、というところです。
思考実験でしかありませんが、たとえば、LGBTQと呼ばれる人たちが、そのことを理由に会社で差別にあったと涙ながらにリーダーに訴えたとします。そのとき、当事者の心に寄り添うことは不可欠です。しかし、寄り添い過ぎてしまった結果、差別的な言動をした社員を罰する、あるいはLGBTQ優先のポストを作るなどしては逆効果です。そんなことよりも、性別とは男女で分けられるものではなく、phのように中性と酸性を行き来したりするものなのだ、という共通認識を持てるような施策を講じることの方が大事でしょう。
また、日常生活では、圧倒的弱者とは言えないものからの訴えに直面することもあります。あるとき、筆者の知人のとある社労士のもとに、会社のデスクトップ画面についての相談が寄せられました。”ひとりの男性社員が、デスクトップにアニメ美少女がかなり露出度の高い格好で微笑んでいる画像を設定していることが気持ち悪い、と隣のデスクの女性社員から苦情があった”というのです。この場合、直接男性社員に訴えかけることができない女性社員は弱者と言えるでしょう。ですから、会社の上司は女性社員の意見を傾聴し、社労士に相談したわけです。解決策としては、席替えするなどありますが、それでは一部社員を優先したことになります。そこで、社労士はこの件について、「デスクトップの画像変更を全面的に禁止する」という解決に臨みました。一律禁止にしてしまえば、女性社員としては何も言わずに不快から解放されますし、同じ問題が起こることを避けられると考えたからです。
ただ、私としてはこの対応は失策だったと思っています。他の社員にとってみれば、家族の写真やペットの写真などもすべて禁止されてしまい、何とも言えない居心地の悪さ・窮屈さを感じてしまうからです。確かに、女性社員と男性社員を比較すれば、女性社員は弱者に該当したのかもしれません。しかし、少人数(女性社員)の意見で、弱者(当該案件について意見することができない立場のもの)を犠牲にしています。同じく傾聴するのであれば、男性社員と女性社員、両者の話を聞くべきだったと思います。デスクトップ画像はどうしてもその美少女でなければならないのか。女性社員の受忍限度はどの程度のものなのか。ひょっとすると、日頃から別の事情で気が合わず、デスクトップは些末な争いに過ぎないという可能性も考えられます。よりよく傾聴することで違う解決策が見つかったのではないか、と思います。
弱者も傾聴も感情も公益も、すべてものさしで測れない曖昧な概念です。それらをケースバイケースで判断し、より住みやすくすることの難しさと、リーダーの苦悩は想像に難くないです。
本書に「鶏婆』(ジーボー)という言葉が度々出てきます。「『母鶏のように、おせっかいでうるさい』という意味」で、「『自分に直接関係することではなくても、能動的に貢献したい」という心持ちを表す」そうです。他者の問題を自分の問題として捉え、積極的に問題を解決しようとする。台湾の方の気質なのだそうですが、とても素敵だと思います。おせっかいと言えばそうかもしれませんが、個人的には、同じ鶏に擬えるなら「鶏婆」ではなく、「啐啄」がいいかと思います。啐啄(そったく)とは、禅の言葉で、雛鳥が殻をつつく音を聞いて、母鶏が外から殻を割ってやることを指します。またとない好機の意で使われることが多いですが、雛鳥のような社会的弱者が必死で殻をつつき世界へ飛び出そうとしている訴えを聞いたのならば、近くの母鳥はそれを手助けしてもいいのではないでしょうか。オードリーは台湾人と日本人の気質は似ているとも言っています。日本でも、皆が母鶏のような心持ちであれば、住み良いコミュニティになるのではないかと思います。
*参考文献*