私はおじさんの好きになるものが好きだ。
ラーメン、野球、お酒…。
もしも私がおじさんだったら、知らない街のディープな居酒屋や定食屋にフラッと一人で立ち寄ってみたい。そこで瓶ビールを注文して手酌でコップに注ぐ。スポーツ新聞や週刊誌に目を通しながら、店内テレビで流れている「アッコにおまかせ」や「ミヤネ屋」を横目に「チッ。くだらねーな」とぼやいてみたい。
もしもおばさんの私がそのような行動をしたら、「あの人ちょっとやばい人だから近寄るのはよそうかな」「あのお客さんなんか怖いから早く帰って欲しいな」と思われるに違いない。あるいは、もしも福田萌を全面に押し出してそのようなことをしたら『福田萌の奇行』と次の日のスポーツ新聞に載ってしまうかもしれない。(実際の私はそこまで注目されることはないが)
おじさんの良さは自分の思うままに振る舞ってみても、「違和感」のなさに振れ幅が大きいことだ。私はその「違和感」のなさを本当の自由のように感じて憧れている。
先日PGのTwitterでとある若い女性が「今日はテンションが上がったので、赤羽のディープなラーメン屋さんに一人でフラッと入ってみた。そしたらそこの店主にずっと心配された。もうあそこには2度と行かない。」と呟いていたのが印象的だった。店主からしたら、若い女性が一人でこんな店に来るなんて、と信じられない思いと、なぜYOUがここに?とちょっとした興味本位があったのかもしれない。
「おじさんは行ける場所がたくさんあっていいよなー」ということを夫にぼやいてみた。すると、おじさんが密集するサウナや煙がもくもくするホルモン屋が大嫌いな夫である。「俺はおしゃれなサラダ屋やオーガニックカフェに入りたいけど入れない。窓の外から眺めてるだけだ」。うーん、難しい。結局、おじさんや女性という問題ではなく、こうなると個人の好みの問題か?今こそ、夫と私が一日入れ替わる日が来れば良い。
それぞれの抱える「違和感」の壁がなくなる未来は、果たしてくるのか?