センシティブな問題との向き合い方【Over the WIndow】

執筆者 | 21/11/02 (火) | コラム

 どうも、引きこもりコラムニストの最内翔です。
 こちらでは朝のHRでの話題について、引きこもり視点で語っていくコラムです。

今日の話題は

・昨日の経緯
・近づこうとするほど怒られる
・深刻じゃないから拒絶される?

 ざっくりとこんな感じでした。
 ここからはHRを聞いた上での著者の感想になります。


 

 今日は昨日の件についての補足とフィードバック回でしたね。
 中田さんも色々気を使わないといけないことが多くて大変でしょうし、メンバーの皆さんも色々思う所はあると思います。
 そんな中で、少なくとも「イチイチ細かいことうるさいなぁ…… わけ分らんのよ……」って言う風に必要以上に距離を取って欲しくないと思い、今回はちょっと踏み込んだ自論を書かせていただきます。

重要な前書き

 少々長くはなるでしょうが、大事な前提条件を書かせていただきます。
 最内翔自身は生物学的にも性自認的にも男性です。女の子が好きです。
 LGBTQに関しては、正直共感は出来ません。想像もイマイチ出来ません。
 なので基本的にはyesともnoとも言える立場にありません。
 語るには不勉強すぎるし、語れるまで勉強するという程の関心はありません。ごめんなさい。
 ですが同時に、そういった苦悩を抱えた人達を傷つけないように気を付けたいと思っていますし、どこが……。敢えてこういう言い方をしますが「地雷」となっているのかは知っておきたいと思っています。
 そしてLGBTQに限らず、こういった問題に今まで関心を持たずにきた、持たずに来れた人の多くも同じように思っているのではないかと思っています。

 なので皆さん、今回の私の自論はおそらく間違っている所が多々あると思います。
 ですのでどうか、傷ついたり憤慨する前に、是非このコラムのコメント欄や私のTwitterにまで感想や反論をお寄せください。
 分からない事が分かっているからこそ、教えて貰う。
 それこそが一番大事だと思っていますので。

レッテル、バイアス、偏見、先入観

 男だから、女だから、若いから、年寄りだから、日本人だから、外人だから、社会人だから、引きこもりだから。

 世の中には沢山のレッテルがあります。
 レッテルを貼るのはいけないことだ、個々人を見よう。
 そう言うのは簡単です。
 ですがまずはなんでこういうレッテル貼りが溢れているのか考えてみましょうか。

 例えば、

「脚が四本垂直に立っていて、その上に30cm四方の平らな板があり、そこからまた垂直に二本の棒が立っていて、その棒の間に長方形の板がある、茶色い木製の家具」

 何を想像しましたでしょうか? 多分、椅子だと伝わってるかなと思います。
 でも、これってまどろっこしいですよね。

「いや、椅子って言えよ。表現するにしてもシンプルな木製な椅子でいいじゃん」

 そんな風に思われたかもしれません。実際私もそう思います。
 このように、私たちは一つの単語に複数のイメージや要素をパッケージングすることで思考や認識のプロセスを簡略化しています。
 じゃあ例えばさっきの椅子のように最内翔を説明しようとしたらどうなるでしょうか。
 それだけでコラム2,3記事が埋まりますし、それでもまだ説明したり無いでしょう。
 だから短く表そうとすると敢えてレッテルを利用して、「28歳の口の回る引きこもり男性」という風に言い表すことになります。
 なので思考や認識のプロセスを簡略化するという意味で、人類史の発展にも貢献している仕組みでもあるんですね。

 しかし実際問題、「レッテル、バイアス、偏見、先入観」こういった単語には負のイメージがついていますよね。即ちマイナスの効果を産んでいるということ。
 それは

「簡略化のプロセスで大事な要素を削ぎ落としてしまう危険性がある」
「そしてそれが人に対して発生した場合、非常に傷つけてしまうことがある」

 こういった効果ではないでしょうか。

LGBTQ

 繰り返しますが自分は当事者ではないのでこれが正解では絶対ないです。
 ただ自分は性自認の問題から引きこもりになったという方とお話する機会があり、その方との交流の中で自分なりにしている認識というものがあります。
 間違っている可能性も十二分にありますので、「違うよ」と思われた方は是非教えてください。

 私が聞いた話の中から出した結論はこういった悩みを持つ方にとって一番辛いのは、

「男女という2つの括りで語られることで自分達が疎外されていて、それが当たり前である状況」

 というものです。

 例えば「男らしく、女らしく」という生き方を当然のように求められる時
 例えば自分のプロフィール欄を埋める際、プルダウン式で「男or女」しかない時。
 例えば、男女の二元論で語られた話題で、皆が笑っている時

 当たり前の中に自分が居ないという感覚が何より辛いのだ、という風に伺いました。
 なので「男女」という二元論に基づいて分析した本の内容や、それを取り上げて中田さんが考えを語った事もそうですが、それよりもその二元論で当たり前に皆が笑ってコメントしている環境こそが辛かったのではないかなと私は思いました。
 昨日は私自身も笑ってコメントしてしまっていたので、そこは反省しています。
 ちょっと気にはなってたんですが、やっぱり中田さんの例えが秀逸すぎたんですよね……(言い訳

 「男」「女」これらの単語の中には複数のテンプレート的なイメージや要素がパッケージングされていて、それは確かに思考を重ねたり分析をする際には思考の簡略化という意味で非常に有用です。
 簡略化する際に削ぎ落した要素の中には、人によっては大事な要素があったんだということを自覚し、削ぎ落した後の認識が当たり前ではないんだということを意識することが一番重要なのではないでしょうか。
 そう考えると、ある意味こういう問題に対する忌避感が生まれるのもある意味自然な事ではあるのです。
 何せ今まで簡略化することで省略できていたステップに、ひと手間加える必要が出て来たのですから。
 ですが人類全体の進化と考えた時に、私たちは暮らしが豊かになることで自分が生きていくための事以外にも思考を回す余裕(を持つ人)が増えてきました。
 その余裕をそのひと手間に回すということが、本当の意味の「多様性を認める時代」なんじゃないかなと思っています。

完璧な理解は出来ないし、する必要は無い

 ここまで読んだ方の中にはこう思っている方もおられるのではないでしょうか?

「うーん、まぁそうなんだけど理解出来る気がしないんだよな……」

 今まで見向きもしなかった価値観があるのは分かった。
 でも離れすぎててそんなに求められても、そこまでの余裕はない。

 そりゃそうです。
 人類がとか、多様性の時代がとか言っても、私含め皆さんには皆さんの悩みがあり生きる為に精一杯だったりします。
 その中でどこまで寄り添えるのかと、不安になるでしょう。
 自分もそこで迷ってモヤっとしたことがあるので、私自身の向き合い方を一例としてご紹介します。
 とはいっても、実は前書きに書いた通りのことなんですがね。

 まず、完璧に理解することは無理だと思っています。
 同じ経験をしていないと分かち合えない苦しみはありますし、同じ悩みを持つ者同士ですら千差万別だったりするのですから。
 なのでいくら勉強しても彼ら彼女らと同じ領域で語れるようになれる気がしません。

 そこで自分達の目的を思い出してみましょう。
 私たちは自分達が積極的にLGBTQの問題を解決したいと思っていますか?
 思っておられる方は勿論しっかりと勉強していただければと思います。
 でも何より、そういった悩みを抱えた友人を傷つけず、寄り添うことを目指したいという方が殆どではないでしょうか。

 であるなら、改めて敢えてこういう表現にしますが、「地雷」がどこにあるのかを知る事。
 どんな言葉や態度が一番傷つけてしまうのかを知ることが一番大事なのではないでしょうか。
 そう私が考えた結果が、前述の「当たり前の中から疎外しない事」でした。
 ですがそれほど沢山の人に聞いた結果出した結論というわけでもなく、そもそもこういった悩みは「LGBTQの悩み」と一括りに出来るようなものではありません。
 大事なのは自分達の当たり前が誰かを苦しめていたこと、自分達が何も分かっていないこと、それらを自覚した上でその友人に教えを乞うことではないでしょうか。
 そう考えているので、LGBTQに限らずこういった問題に関して私はこう言うように心がけています。

「俺はその悩みについてよく分かってないし、申し訳ないけどそういった問題に積極的に何かしようと思う程には関心が無い。でもあなたを傷つけたくないから、どこに気を付けたらいいかを教えて欲しい」


 

分かった気になるのは、本人の話を何時間も聞いてから

 最後に、中田さんが悩んでらっしゃった

「歩み寄ろうとしたほうが何もしないより拒絶される」

 に関しても自論を述べたいと思います。
 以前私がヤンチャしたのを覚えていらっしゃる方もいるかもしれませんが、まさしく歩み寄ろうとした中田さんを拒絶した当人の一人です。
 そういう意味ではそれなりに説得力のある言葉になるんじゃないかな。
 まぁ以前と同じ内容でしか無いんだけど。

「何もしないより歩み寄る方がよっぽど良い筈」

 えぇ、仰る通りです。
 なんですが、私が思うにその歩み寄り方が良くないのだと思います。
 ご自身でも仰ってましたが本で最短距離で学んでその通りにやる、それこそが。

 社会問題になるような悩みは、特に共感してもらえなかった経験自体が悩みであることが多い。
 なのでデフォルトが「理解してもらえない」という不信感からスタートします。
 その不信感を拭わないまま「当事者じゃないけど本で読んで分かったよ」なんて言われると強烈な反感しか生まれないのです。
 何故なら、分かってないのに分かった風にアドバイス、いや自分の価値感を押し付けられてきた経験が多々あるから。
 お前もかという強烈な怒りが湧いてくるのです。
 特に中田さんは、申し訳ないけど圧倒的に強いです。
 強い人が理解しようとした結果、結局自分の価値感を変えられず「お前がおかしい」と裏切られてきた経験も多々あるのです。
 この不信感を拭うには長い時間をかけて個々人から話を聞いて、そのままを受け入れるしかないんです。
 それは例え、カウンセラーのようにその分野に詳しく似た悩みを抱えている人達を沢山見てきた人であっても。
 そして例え、その価値観が自分の価値感では理解できなかったとしても。

 社会問題は、なまじ社会で大きく取りあげられている問題であるが故に本など参考文献があります。 それらの本を読めば、例えば繊細さんの本のようにその悩みに名前を与えることで解決の糸口を提供することは出来るかもしれない。
 しかしそれぞれの悩みはやはり「特別」なのです。
 本人から時間をかけて聞くしか、不信感は拭えません。

 強いあなた、あなたは腰を据えて時間と自分のメンタルを注ぎ込んで自分と違う価値観に向き合い受け入れる覚悟はありますか?
 無いのであれば簡単に理解したいと、理解できると思わないで欲しい。
 また期待して裏切られるのが怖いのです。
 もしそこまでの覚悟がないけど、出来る範囲で寄り添いたいと願うなら、何に気を付ければいいかだけそれぞれに聞いてみてください。その上で深入りせず普通に過ごしてください。
 覚悟を決めて向き合いたいのであれば、どれだけ時間がかかっても本人の言葉を聞いて、引き出して聞き出してあげてください。
 本はあくまで、参考書でしかありません。
 そしてその言葉を例え理解出来なくても、そのまま受け入れてください。

あくまで個人の意見です

 最後の文でも分かるように、今日の話は全て個人の意見です。
 何人かから聞いた話と自分の考えを混ぜ合わせて出した、ソースの不確かな意見です。
 ですが、一つの切っ掛けになれるかなと思い書き上げました。
 何度でも言いますが、私の考えも見当はずれかもしれないですし、少なくとも全員に適用できる考えではありません。
 なのでもし「違うよ」と思った方は是非このコラムか私のTwitter(後記)で教えてください。
 そして親しい誰かに是非、どう思うか教えて貰ってください。

 いつか、「生きてて楽しい!」と笑顔で言えるように。
 またいずれ投稿したいと思いますので、良かったら是非またお越しください!

執筆者 | 21/11/02 (火) | コラム


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