私最近ですね Progress ラウンジとかで何もなくただ入るみたいなのをやってるんですけども、これまでプログレスの色んな人々の動きとか行動とかどうなっていくのかっていうところの観察をもう1年半ぐらいやってきた結果割といろんなことに気づいてきたと言うか、うまく言語化できるかどうかっていうところは分からないんですけど思ってることのピースの端々を語っていって自分の中のまとめにしたいと思います。
第一条件として人々は快楽を求める。そして不快なものを避けるっていう特性があります、と。
これはもはや動物的な特性と言うか人間が本来持っている当たり前の生存本能みたいなところで、たとえば子供の時にですね親以外のものに対して子供ってすごい不快感を感じるような仕組みになってるんですね。
人見知りじゃない子供って存在しないんですよ。
これは何でかって言うとシンプルに親だと思って他人に対して甘えたり依存したりすると、今の時代だとないかもしれないですけど原始時代とかだと普通に死んでしまうっていうリスクがあったわけですよね。
なので基本的に親のようなもの、もっと言うと家族とそれ以外の部族というところをすごく繊細に感じ取るように人間っていうのは進化してきた生物です、と。
それとは別で食欲とか性欲とか睡眠欲みたいな原始的な欲求っていうのがありますよね。
それを追い求めるために生物はDNAに行動原理を刻まれてるので、人間というのは基本的に得をするための行動というのをとるようになっているんですね。
全ての人間は可能な範囲で自分の利益を最大化するための行動をとるようにふるまいますと、その上でなるべく省エネルギーで利益を得るために行動するようにもできてると。
これを考えるときに、単細胞生物をイメージして欲しいんですけど、
例えば単細胞生物のエネルギー源となるような餌のようなものをランダムに配置してその中に単細胞生物を配置した場合どうなるかっていうと、特に指示をしてないにも関わらず
徐々に徐々にこの生物というのはエネルギー源に対して最短のルートというのを選ぶような行動をとり始めるんですね。
単細胞生物のパターンだとめちゃくちゃシンプルに聞こえる話なんですけどこれが人間になった場合はやや複雑化してくるという感じなんですよ。
これを人間に当てはめるとメリットとか得を追求するっていう。快を求める特性と。
最短ルートで行動する、つまりは不快なことを避けるって言う特性がありますと。
このメリットとか快というのを人間がどのようにして判断してるかっていうところは先ほど親と子供の話を出したじゃないですか。
その時にどのような基準でこの人は家族なのかっていうところ、ないしはどのような基準でこの人は敵なのかっていうところの判断をしているかを考えればよくて。
そういう判断は意識下でやるもんじゃなくて、ある程度無意識な状態で判断されている無意識な知能による判断だと僕は思ってるんですね。
わかりやすい例で言うと何となくこの人好きだなとかなんとなくこの人苦手だなっていう感覚と言うか神経の揺れみたいなものが皆さんあると思うんですよ。
なんかざわっとするなこの人とか、なんかこの人すごいあったかい気持ちになるわって言う感覚っていうのがあると思うんですよ、でもこれがなぜそういう気持ちになるのかっていうところの言語化ってわりと難しいと思うんですね。
これを説明するために無意識の知性って言ったところの話を軽くしようと思うんですけど。
まあこれはちょっとした実験である事件がありまして、5×5のなんかますとか言うかビンゴカードみたいなの想像して欲しいんですけど。
そのビンゴカードみたいなマスの中にランダムでバツ印が表示されて表示されたところのボタンを押すみたいなそういう実験があったんですけど。
この一件ランダムに見える ばつ印の表示の位置っていうのは裏でちょっと複雑な規則に則って表示されているっていうものだったんですね。
これどうなっていくかって言うと最初の1プレイは全ての人間がかなりランダム性の高い結果が出ると言うか非常に長い時間かけて反射神経みたいな感じでバツ印のボタンを押していくと。
その上で2回目3回目ってなってくると本人には全く意識がないんだけど徐々に徐々にばつ印の付いたボタンを押す速度がどんどん上がっていくっていう結果になっていくんですね。
どんどんどんどんタイムが上がっていくんですけどどっかのタイミングでこの規則性を完全になくしてめちゃくちゃランダムな表示にするとこれどうなんとかって言うと当たり前ですけどタイムがすごい遅くなるんですね。
ここで面白いのが何でタイムが遅くなったんですかみたいな質問を被験者にした時になんだかよくわかんないけど調子が悪くなったみたいな、なんかちょっと集中力落ちてきたかもしれないみたいなそういうなんかふわっとした理由を述べ出すんですね。
これどういうことかって言うと、そもそもばつ印の表示される法則みたいなのは複雑すぎてほぼ全ての人間がどういった法則で動いているかっていうところの説明は全くできないんですけど無意識のレベルの知性、無意識の知性って僕は呼呼んでるんですけど。
無意識の知性というのは徐々に徐々に賢くなっていっていると。
ただ人間は無意識の知性が徐々に徐々に賢くなっていることを全く認識していないですしそもそも無意識の知性があることに気づいてないっていうのがこの実験でわかるわけですよ。
これを受けてさっきの話に戻すんですけど、なんとなくこの人好きだわとかなんとなくこの人苦手だわみたいなところの感覚っていうのって全く説明できないと思うんですけど。
私の結論としてはこれはこれまでの人生における無意識の知性が獲得した成功体験と失敗例の積み重ねが意識レベルまで出てくることがないんだけど無意識レベルで快、不快を切り分けているんじゃないかと思うんですね。
その上で僕が最近考えてる集団的必然性についてお話しするんですけど。
集団的必然性というのは全ての人間が無意識の知性の指示に従って、快と不快を 判断して切り分けていった結果徐々に徐々に人々がグルーピングされていくっていうそういう帰結の事を僕は集団的必然性と最近呼んでるんですね。
そして結論としては自分と判断 や、IQ のレベルや、価値観というのが近い人たちが徐々に徐々に集団を作っていくっていうところのお話で。
より自分を肯定してくれる人や自分を否定しない人っていうのを人は無意識に選んでいくっていうお話なんですよ。
もっと言うと周囲の人々があなたはこの人が合ってるんじゃないっていうところを無意識の知性で判断していて、この人とこの人は合いそうだなとかこの人とこの人合わなそうだなみたいなところを判断していてその上で、会う人同士が出会うように必然的な帰結に向かってみんなが判断していくっていうところの部分があるなって思ってるんですよ。
この辺はちょっと理解してもらうのは難しいかもしれないんですけど。
プログレスみたいな利益関係っていうところがほぼ存在しないようなコミュニティだとこの集団的必然性における快楽集団の形成っていうのはより顕著に見られると思ってまして。
ビジネスとか利益の追求っていうのを考え時にはある程度自分にとって多少不快感を感じる人であっても勝利のためには必要になってくるっていうことがあるので圧倒的なグルーピングの偏りっていうのは起きづらいんですよ。
会社と学校を比較して考えてもらえばこの辺もわかりやすいと思うんですけど例えば学校におけるグループっていうのはなんとなく毛色の似た人と言うかなんとなくこのグルーヴ感があってる人達っていうのが誰に指示されたわけでもなく形成されていくと思うんですね。
その特性とか能力によってスクールカーストっていう風に言ったりもしますけどこのカーストって誰かが明確な意思を持って形成してるかっていうとそんなことはなくて集団的な無意識な知性が結果的にそういうカースト的帰結をもたらしてるんじゃないかなって思ってるんですよ。
逆にビジネスの場面においてはこの人とこの人は別に会わへんやろなっていう人も割と協力しながら活動していくわけじゃないですかそれは何故かって言うと目的の達成のためには必要になってくるからであってそのためにはグルーヴ感があってるかっていうところはある程度無視されるっていう事なんですね。
ただこの何となく感じがいいとかなんとなく感じが悪いみたいなのって個人差があるし、なおかつ極端に10対0なわけじゃなくて割とグラデーションがあると言うかこの人は70%ぐらい感じがいいみたいな、30%ぐらい感じが悪いみたいなそういうグラデーションで家族なのかそれとも別の部族なのかっていうところを判断してるんじゃないかなって思ってるんですね。
この相手に対して心地よいと思うのか、少しばつが悪いと思うのかって何に対してそう思うのかって全然言語化できないんですけどでも何となく感じてはいるっていうところがあると思うんですよ。
これ結論僕が何を言いたいかって言うと「全ての人間関係はなるようにしてなっている」ていうところを言いたいんですよ。
自分が発信していけばなんとなく自分に対して心地いいと感じてくれてる人となんとなく感じ悪いなーって感じてる人に自然と分けられて行くんで心地いいと思う人たちとだけ仲良くしたらいいんですよっていうそういう話なんですよね。
ことコミュニティにおいては最初はですね同期の人達とかがグループを形成して仲良くなったりするんですけど、ある程度の時間は僕の感覚で言うと3ヶ月ぐらいの時間が経ったタイミングで徐々に徐々に合う人合わない人っていうのをそのグループ内もしくはそのグループ外の人たちの中から探していって最終的に自分と馬が合う人たちとグループを組み始めるっていうところなんですよ。
勘違いしないで欲しいのはこれいいとか悪いとかじゃなくてなんかそういう風になるよねっていう話で、そういうもんだからなんかあの人となんとなく疎遠になってきたなとかは全然気にしなくていいよって話ですね。
あの人と疎遠になってきたなと思ってるかもしれんですけど、今頃その人パフェとか食ってるんで。あんまり気にしなくていいと言うか集団的な必然性が働いたんだなって思えばいいんじゃないかなと、みんなそれぞれが自分が楽しいと思うことや楽しいと思える人と一緒に行動していくわけだから隣の芝を見て何かを感じる必要ないし自分も最大限楽しむはいいんじゃないかなと。そんな話でした。