岸田奈美さんの「死ね」と言ったあなたへというタイトルのnoteを読んだ。現在有料マガジンの中にアーカイブされていて、予告なく削除予定という記事。これは岸田さんのダウン症の弟の写真をTwitterに投稿した際にコメントでガイジ(障害児)は死ね、と書かれたことから始まっている。その後書いた本人と保護者とのやり取りをするわけだが、その中で岸田さんは書いた本人が障害を持っていて、そして同じ言葉を投げつけられたことから深く傷ついた過去があったことを知るのである。有料記事なため、詳細なあらすじは控えさせていただくが、岸田さんの愛ある対応と考察に私は電車の中であったにもかかわらず涙がこぼれた。
そして、突然、本当に突然にある風景が私の中にフラッシュバックした。それは中学1年生の時、教室に入って見つけた私の机にでかでかと油性マジックで書かれた死ねの文字だ。30年前のことで、すっかり忘れていたのに急によみがえり、しばし途方に暮れる。あの時、私は一体何をしてその言葉を投げつけられたのだろう。書いた人は何を思って書いたのだろうか、と。
当時はツッパリ全盛時代、校内暴力が日本中に吹き荒れていた頃だった。ドラマ「今日から俺は‼」の世界を想像してもらえばわかりやすいだろうか。私は他のクラスのツッパリ組の女子と仲が悪かった、というより一方的に嫌われていた。全く接点もない、話もしたことのない女子グループが通りすがりに、ブスが目立つんじゃないよとか黒豚死ねとか言われてた。あの頃特有の、聞こえよがしに言うが面と向かってケンカを売ってくることもない。靴や体操服が隠されることなんてしょっちゅうあったが、無視していた。そんな矢先に登校したら死ねと書かれていた。教室にいた子たちは遠巻きに黙ってみていた気がする。結局は隣の組の仲のよい女子2人がすぐに先生からシンナーのようなものをもらってきて机を拭いて綺麗にしてくれた。しかし、その類の嫌がらせは若干マシになったとはいえ中3まで続いた。
その後、同級生から人気のなかった地元に一番近い高校に行き、新しい人生が始まった。私を理由なく嫌ったり傷つける言葉を投げつける人のいない世界に住むようになった。すっかり忘れていたとおもったが、私の深い深いところで癒されないままの傷の「死ね」という言葉が刺さったままで残っていた。
高校卒業と共に関東の大学に行き、大阪で仕事をしてすぐにフィリピンに行くことになる。フィリピンに行き、英語とフィリピン(タガログ)語を使うようになり、私は息をすることがとても楽になった。広い世界にでたら、合わない人もいるけど、それ以上に素晴らしい人に出会うことができた。恋人だけの間ではなくて、友人として家族として同僚としてご近所さんとして、アイラブユーを発する人たちと付き合うようになった。相手がどんなにすばらしい人か、どれほど尊敬しているか、どんないいところを持っているかを惜しみなく表現するフィリピン人とその社会で生きることは私にとって、まさに水を得た魚のようにしっくりきた。その後、諸事情で日本に戻ってきてからも、ずっとフィリピン関係の仕事をしてきた。待たせてごめんね、ではなくて待ってくれてありがとう、という感覚が私には心地よい。
プログレスに入って、あっちゃんが「生きてて楽しい」というのを聞いて、なんて素敵な文化を作っているんだろうとうれしくなった。日本の文化や社会の中ではあまりはっきりと表現されない「生きてて楽しい」だが、いつもその言葉を伝えること、聞こえてくること、そのことで私は生きていて楽しいんだ、生きていていいんだ、と無意識レベルで存在を肯定される。それは自分の存在価値をまるっとそのまま受け入れてくれる安心感を得られる空間となる。ことばの力は偉大である。言霊は本当に存在する。
私は30年間、誰かに投げつけられた「死ね」にずっと刺されたまんまだった。ずっと血を流し続けていたようだ。そしてその事に気づいた今、私はそのとげを抜いて、よくここまで生きてきた私のことを誉めて、抱きしめて大切にしてあげよう。誰かが誰かにぶつけたことばがこだましあって私にぶつけられたのかもしれない。もうその理由はわからないし、その時の私に原因があったのかなかったのかは、考えてもしょうがない。ただただ、その時の痛みを乗り越え、時には世界から消えてしまいたかった自分が今も生きていることに感謝しよう。私、よくがんばった。そして、今は心から生きてて楽しい。そして、あなたにも生きててほしい、生きてて楽しんでほしい。人生は短い、だから大切にそして楽しんで生きていこう。