おじさんは遊戯的である。ひらがなであることからもそれが表れている。ひらがな表記にするとやわらかさが出るのが日本語の妙である。
例えば、「桜」「サクラ」「さくら」どれも同じ意味だろうか。この違いを日本人は無意識的に感じ、それを古くから楽しんできた。
「おじさん」と声に出してしまえば、それが漢字かカタカナかひらがなか分からない。しかし、我々がイメージする多くはひらがなであり、口に出した瞬間にそのひらがなとしてのおじさん性が現成する。
「おじさん」といった瞬間、経験的おじさん性が表れ軸を形成する。その軸を起点に個人としてのおじさんを理解しようとするのだ。
では、経験的おじさん性とはなんなのか。今後、それを日本文化に沿って考察しノートしていこうと思う。おじさんは文化である。おじさんは生まれてからいくらか月日が経っている。その土地で生まれ育ったのであれば、その土地の文化が染みついていて無意識的にその文化的振る舞いをしているはずだ。他国については準備がないため、日本のみに注目し日本的おじさんを考察したい。
はなしは戻るが、おじさんの遊戯性について少し考察したい。
合理的解釈によってしまえば、遊戯性は全く無駄で余計なものにすぎない。遊戯的なものといえば例えば、野球、競馬、将棋、漫画などあげればキリがない。おじさんについて科学的見解で「子を育てあげたら男はもう存在価値がない」などと聞くとなんて心貧しいことを言うのかと思う。
強い知性はおじさんを殺してしまう。それが外部の意見であれば全くいわせておけばよい。しかし!もしおじさん自身が自分の存在を疑い攻撃し始めたらなんという災難か!「おじさんは自分のことを弱い存在だと思っている」というのはここから来ているのだろう。おじさんは単に寂しいのだ。
映画『ジョーカー』を思い出す。優しいおじさんがなぜ犯罪者になってしまったのか。この映画の中でこんなセリフがある。
「本当に自分が存在するかわからなかった。でも、ぼくはいる。世間もそれに気づき始めた。」
犯罪に手を染め世間の注目をあつめることで自己を確立した。なんと悲しい、救いの道はあったはずである。
遊戯的存在というのは因果関係によったところに存在していない。つまり、なにか目的のために遊戯性があるというのではない。遊戯性は遊戯性そのままを見なければならない。学者が遊戯性の存在目的をこうだと示したところで、それは一部構成要素をあげたに過ぎない。その意見を否定はしないし、また納得できる意見なのであろうが、すべてを示し得たことにもならない。おじさんの科学的存在価値論がおばさん論よりも少ないということを考えると、おじさんは大海であり宇宙である。
余談になるが、おじさんの有用性について考えていたときに、「ぼくのなつやすみ2 海の冒険編」のコマーシャルを思い出す。内容はこうだ。
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今日、息子にゲームをねだられた。
「ゲームなんて社会に出たらなんの役にも立たんからダメだ、」と言ったら「役に立たないものは世の中に必要ないの?」と聞かれてしまった。ううむ。
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おじさんはゲームみたいなものだ。
おじさんとしての苦しみから逃れるには、紳士道に入らなければならない。また、日本人であるならば西洋的紳士ではなく、日本的紳士を目指さなければならない。モノマネは意識的であるためはがれやすいし、後追いでしかないため独自の発展をしにくい。ならば!その内に流れる血を活かそうではないか!
ところで日本的紳士とはなんなのかということになるのだが、ここについてはまた勉強、思索してからノートしていきたい。
さて、長くなってきたので日本的おじさんの考察についてはまた今度にしようと思う。
導入としては、日本神話のスサノオから展開していこうと思う。
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