前回のコラムにて『win3 part4に見た中田敦彦の優しさ』について書いた。「優しさ」について書いたなら、対となる「強さ」について触れないわけにはいけない。
この牛宮城事件において良くも悪くも最もクローズアップされたのが、「中田敦彦の能力の高さ」だ。
とりわけ、「中田が自分をよく見せるための演出で、言わば詐欺師」というコメントは、表層的な「中田敦彦の能力」に目が向いた結果なのではないかと思うのである。
趣旨としては、「よくわかってない連中相手に、一人まともな奴がまともな話をしているだけだ。あれはちょっと経営を知っていれば誰にでもできるし、大袈裟に褒めている君達は騙されているようなもんだ。そうもてはやすもんでもない。」といったところだろうか。
では、あの事件を目の当たりにした人々は、中田敦彦の高い能力に称賛の声を送りたかったのだろうか?
確かに動画のコメント欄では、能力の高さの内容が多い。
しかし、基本短文でかかれるコメント欄は、一言で表現しやすい「中田敦彦の能力」部分がクローズアップされやすいのではないか?
動画を見た一瞬では表現しきれない想いが、あのコメント欄の向こうにあるのではないか?
そのような深読みを、僕はしてしまう。
そして、僕が思うコメント欄の向こうの想いとは、
『あの火中に飛び込み、そしてあの場に立っていること』
そのものへの驚嘆と賛辞の声なのではないだろうか、と思うのだ。
試しに想像して欲しい。
もしも自分に、あっちゃんと同じ能力があったとしたら。
同じようにあの場に飛び込めるのか?
世間に注目されるプレッシャー、失敗できない状況、相手が聞く耳を持ってくれるかわからない不確実性への不安。
世の「中田敦彦と同等の能力」を持つ人たちは、同じ境遇に立たされたとしたら、やはり同じように飛び込んだのだろうか?
僕は思う。皆が心動かされたのは「中田敦彦の能力」ではない。
あの場において、一歩も引かない「中田敦彦の強さ」に感動を覚えたのだ。
僕は、前回のコラムで「あの場にあっちゃんが立った理由は、宮迫さんを助けたいという『優しさ』だ。』という趣旨のことを書いた。
でも、皆が思うように、『優しい』だけでは問題を解決できない。
何故、あの場に立ったのか?の答えは『優しさ』だが、
何故、あの場に立てるのか?の答えは『強さ』だ、というのが僕の答えだ。
では『強さ』とは何か?
あっちゃんには、色んな能力があるから困難を乗り越えられるのだろう、と思う人もいるかもしれない。
しかし、あっちゃんに特殊能力がなければ、あの場にいなかったのだろうか?
類稀な分析力やプレゼン力、説得力、俯瞰で見る力。
例えそれらの能力がなかったとしても、あっちゃんはあの場に立っていたような気がしてならない。
なぜ、そう思うのか?
2022年1月22日のHRで気づいたことがある。
茶道の話題で、「シュリンクする茶道の世界を自分の伝える力で盛り上げたい」との趣旨の発言があった。なぜか初めて聞くフレーズにも思えないのは、僕だけではなかったのではないか。
そう、中田敦彦は「盛り上げたい」人なのだ。
つまらないよりかは、おもしろくしたい。
あきらめるよりかは、悪あがきする。
死する美学よりも、生の苦しみを選ぶ。
「活きる」ことに美しさを感じ、そうでないものを目の当たりにしたときに、それをなんとかしたくなるのではないか、そういう信念を持った人なのではないか。
だからこそ、あの場に立ち続けることができたのだ。
『生きるって楽しい』
その信念こそが、「中田敦彦の強さ」の源泉になっている。
あっちゃんの各種能力たちは、それを実践するために選び取った“石ころ”にすぎない。
そう僕は思っている。