多くの場合、環境を破壊する要因は悪意ではなく、善意であると思う。
環境。具体的には一部のコミュニティや、人間関係。
これを破壊する要因は悪意を持った攻撃者であるというイメージがあるかもしれない。
だが、実は悪意を持って行動する人への対処はそこまでのコストはかからない。
彼らは、攻撃による快楽とコストの天秤で行動しており、「荒らしコスト」が高い環境化ではそこまで活発に活動しない。
より、豊かでそして秩序のない環境を求めてホッピングしていく。
つまり、彼らは環境の一部で悪意を振りまくことがあっても、環境は破壊しない。
実は、環境を大きく破壊し、再現不可能なレベルまで衰退する要因は「継続不可能な善意」である。
具体的には、ある喫茶店が存在するとして
その環境は明確に利益関係(お金のやり取り)と価値の提供(リラックス出来るスペース。美味しい食べ物)で成り立っているとする。
ここに、善意を持った奉仕者が「定期的に無料で美味しい料理を提供する」というサービスを始めるとする。
この場合、最初はすべての関係者が喜ぶ。そこに悪意は全く存在しない。
すべての人が喜び、多くの人がその環境によりコミットする。行動とリターンの関係性がリターン側に偏るからだ。
だが、善意の提供者は驚くほど簡単な理由で善意の提供を停止する。
金銭以外の報酬、やりがいをベースに行動しているため、実は非常にアン・コトンローラブルなのだ。
実は利益関係でつながっている関係は非常に管理が楽で、サービスと支払いのバランスの釣り合いが取れている限り、サービスの提供を停止したりしない。
だが、そこに利益関係がない場合、提供者のこだわりや、リターンとして得ているものが見えづらい。提供者本人も何が目的なのか明確化出来ていないことも多い。
そのため、【善意】とは【非継続的】であるという特性を持っている。
シンプルに体調が悪いときに他人に優しくは出来ない。
そこで、善意の提供者が「無料食事サービス」の提供を停止させるとする。
そうなると「カフェ」と「客」のレベル感が完全に破壊された関係になる。
元々は「お金」と「サービス」を交換していた関係性にあったわけだが、善意の提供によって基準が明らかに壊れる。
そもそも満足していたはずなのに、お客側は「善意の提供を含めたサービス」を前提したサービスに基準が変更されてしまっているため、不可逆的な絶望感を持つこととなる。
こういった、「非継続的な善意の提供」による環境の破壊はありとあらゆる場所で発生している。
とはいえ、対処方法も存在しない。誰も悪意を持っていないからだ。
あくまでもすべて自衛するしかない。善意からの自衛だ。
自分自身が不継続的な善意の提供者にならない。サービス提供時はきちんとお金をもらう。
プロセスを共有し共に楽しむのは大丈夫だと思うが、成果物の無償提供は危険だと思う。
同時に、善意のサービスの依存した客にならない。サービスを受けるときは通常通り金銭的な報酬を渡す。
善意から自衛する必要があるのは
無秩序な善意の提供は「健全な関係性」を「ダメンズ(概念上)と甘やかし彼女」にしてしまう可能性を孕んでいるからだ。
あくまでも自分の余裕の範囲で、相手が自分に依存しすぎない範囲での善意の提供を心がけていこうと思う。