アリスカーナ所属、文学研究者の石井理(さとる)です。文学好き勢の方々にお読みいただけたら嬉しいです。3月は、別れの季節ということで…
今日は長女(5歳)の幼稚園が修了式。年中の娘も、4月からはクラスのみんなとバラバラに。お迎えの帰り道、なんだか娘がうつむいている気がしたので、「さみしいの?」とたずねてみると、「うん、でも大丈夫」。一年前の修了式の日よりも、ちょっと大人になっている気がしました。
そんな長女に、「娘よ。人生とは出会いと別れの繰り返しじゃ」みたいなことを伝えようと思ったけれど、おじいちゃん口調は違うなと思ったので「これから、こういうこといっぱいあるよ」とだけ。抽象的すぎて5歳児にはまだわからなかったのか、しばしの沈黙。
その間、僕の脳裏にぼんやりと浮かんでいたのが、このフレーズ。
さよならだけが人生だ
これは井伏鱒二が「勧酒」という漢詩の、最後の一句にあてた意訳。せっかくなので、短い詩だし、五七調が美しい井伏訳の全体を見てください。
このさかずきを 受けてくれ
どうぞなみなみ つがしておくれ
はなにあらしの たとえもあるぞ
さよならだけが 人生だ
(※ 表記を平仮名、現代仮名遣いに改めました)
ざっくり場面を説明すると、前半部分は、友人との別れに際して酒を勧めるところ。「まあ飲めよ」ってなもんです。そして、続く後半部分では、これから離れ離れになる友人に向けて、「花に嵐」とか「さよならだけが人生だ」とか、なんだかメッセージ性の強い、贈る言葉。
「花に嵐」。これは、素晴らしい時間には邪魔が入りやすく、長続きしないものだ…ということを表すことわざ。たとえ花がどれほど美しく咲き誇っていたとしても、ひとたび嵐が吹きつけると、花の命は終わります。そして、風に吹かれた花びらは、枝を離れ、はらはらと地面に落ちていきます。
僕たちも、その花びらのように、さよなら。そして、人生が出会いと別れの繰り返しであれば、命の終わりは永遠の別れ。つまり、どれほど素晴らしい人生も、結局すべては「さよなら」に向かっていく。だから、「さよならだけが人生だ」。
これが、井伏訳を通じて鑑賞される、漢詩「勧酒」の内容です。なんだか切ないですね。
ところで、花って、いったいなんの花でしょう?みなさんは、どのような花をイメージしましたか?井伏はどうだったのでしょうか。井伏の訳から感ぜられる、そこはかとない儚さや切なさは、一体どこから来ているのでしょうか。
3月の風に吹かれ、そんなことを考えながら、右手は長女の手を握り、左手は次女(2歳)の乗るバギーを押していると、バギーの前輪が歩道のちょっとした段差につまづいて、次女が「わわ」っとなりました。ごめんよ。
次回は、漢詩「勧酒」の原文を読みながら、異文化理解について、少し考えてみたいと思います。お読みいただき、ありがとうございました。