「まあ、風邪には色んな種類がありますからね。とりあえず9割のウイルスに効く薬出しときます。」
医者から処方された薬を朝夜の食後に飲み、なるべく清潔に心がけながら回復を待つが、それでも喉の炎症は熱と腫れを両腕に携えて鎮座する仏像の様に、首の中にどっしりと居座っている。
昼下がりの午後。
外の光が閉められたカーテン越しに、おぼろな光となって部屋の中を照らし、遠くを走る車の音は距離と障害物により輪郭を失ってしまっている。
そんなひっそりとした部屋の中に設けられたベットの中で目を瞑り、横になる。
朝起きるとすっかり回復した自分の姿を期待して毎回眠りにつくのだがその期待は、寝起きのさらに悪化した喉の痛みにより、真冬の夕陽のようにいつの間にか消えていた。
今はただベットの中で布団を首までかぶり、喉の乾きも無視して何も望まず、何も期待すまいと努めるようになった。
裏切られた期待は怒りになるが、消え入る期待は虚しいがいくぶん静かだ。
望みや期待を考えなくなったが、そのかわり意識は自分の全身に行き渡っている血液や神経の事を考えるようになっていた。
「体内を循環する無駄の無いシステム」について意識を巡らした。
その精巧さに関心したり、またその頼りなさについて考えていると、黒い革手袋をはめた誰かの片手が自分の首を掴んでいる事に気がついた。
首を掴まれ締められてはいるが、呼吸ができない程ではなく、じんわりと圧力を与えてくる。
同時に革の匂いがあたりに強く立ちこめていた。
ゆっくり目を開けると黒い革のジャケットと黒い革のパンツを履いた男が、ベットの隣に置いてある椅子に足を組んで座り、自分が寝る前まで読んでいたヘミングウェイの『老人と海』を読みながら、すっと伸ばした右手で首を絞めていた。
他人の本を勝手に読みながら、首を絞めている。
まるでずっとそうであったように、まったく違和感を感じさせない。
そんな状況だが不思議と恐怖心や不快感がない。
それが風邪で寝込んで思考が正常に機能していないからなのかはわからない。
ただこの男が自分に対して怒りも憎悪もまた優しさも慈悲も何の感情も抱いていない事も理由のひとつなのだろう。
男は視線を本から逸らさず、話し始めた。
「波の飛沫が飛び散る描写が印象的だな、またそれが、この作品の象徴でもあるのか。
飛び散った飛沫は海の過酷さを表していると同時に老人の魂の残り火も表している」
その声は音の無かった部屋をひさしぶりに震わせた。
そして男が口にする言葉には妙な説得力があり、なぜここにいて、なぜ首を絞めているのかという疑念も強制的に受け入れさせる力があった。
男は一呼吸おいてから続ける。
「冷たくもあるし熱くもある。そして、一瞬だが永遠でもある」
黒く日焼けし深いしわが何本も刻まれた作中の老人の顔が浮かぶ。
船上で荒れる海と海の生き物達を攻略しようと必死に食いしばる表情。
恐怖と苦痛、また、生きようとする生命力が作り出す表情。
「波の飛沫」「海の過酷さと魂の残り火」
「冷たくもあるし熱くもある」「一瞬だが永遠でもある」
目を閉じ、それらの言葉を反芻する。
言葉とは本来脳で処理され意味やイメージを起こすものだが、その言葉の持っている「純粋な要素のようなもの」が体の全身にゆき届いていくのを感じる。
病んでいる体が自身の体の治癒を施すのと同じように、体が反芻する言葉の要素を理解しようと、ざわめいていく。
押さえつけられた首に革手袋越しに男の手の熱が伝わってくる。
首がベットにずぶりと埋まる。
意識は霞み、朦朧となっていく。
頭は眠り、体は治癒を施し、言葉の要素を理解する。
すると、まるでチョコレートが溶けるように首がとろりと伸び、
頭部は胴体を残してベットの底へ潜っていった。