永遠の文学青年ちゃかし誕生物語その②

執筆者 | 22/11/16 (水) | コラム

私が中学生の頃(1984年4月から1987年3月)といえば、スティーヴン・スピルバーグがヒットメドレーとしての地位を不動のものにした時期である。
しかし、『グレムリン』のパンフレットを読んでいて、私はスピルバーグは監督ではなく、製作総指揮で、監督はジョー・ダンテだと知ったのである。
監督でもないのに、宣伝文句では「スピルバーグ新作」なのだ。これは一体どういうことだ? と、興味を持つことが、映画とはどういう役割分担で作られるのかを強く意識しだすきっかけになった。
にもかかわらず、前回のコラムで書いたように、文藝映画の原作者までは気が回っていなかった。それが、『蜘蛛女のキス』の作者はマヌエル・プイグという人だ、と知ったことをまたきっかけにして、今度は、物凄く文藝映画に興味がわくのである。

この頃、スピルバーグのような娯楽映画に分類される作品の多くは、オリジナル脚本のものが多かった。前出『グレムリン』は後に『ホームアローン』シリーズを手がけたクリス・コロンバスだし、この人は『グーニーズ』や『ヤングシャーロック』も担当する。
また、『バックトゥザフューチャー』も監督のロバート・ゼメキスと相棒のボブ・ゲイルのオリジナル脚本だった。
なので、あまり原作者の存在を意識しなかったのだが、意識しはじめるととことん追求してしまう性格だったので、原作者のいる文藝映画が観たくて堪らなくなり、一気にそうした映画を観始めるのだった。

具体的にタイトルを挙げる。
『インドへの道』原作者・E.M.フォースター
『眺めのいい部屋』原作者・E.M.フォースター
『愛と哀しみの果て』原作者・アイザック・ディネーセン
『アマデウス』原作者・ピーター・シェーファー
『カラーパープル』原作・アリス・ウォーカー
『ラルジャン』原作者・レフ・トルストイ
『やさしい女』原作者・フョードル・ドストエフスキー

たまたま、当時の名古屋でも映画館で観る事が出来た作品たちが、上記の作品たちであったことの「運命」に心の底から感謝している。

文学史に名を連ねて然るべき作家たちなのである。
しかも、『インドへの道』、『眺めのいい部屋』、『愛と哀しみの果て』、『カラーパープル』らは、たまたま背景となる時代が19世紀末から20世紀初頭あたりがメインで、私に、文藝・映画・歴史の三本柱を強烈に意識させてくれることになったのだ。

また、原作を忠実に再現しているかどうか、という塩梅も絶妙だったと言える。
『インドへの道』『眺めのいい部屋』『カラーパープル』は忠実。
『アマデウス』は小説ではなく戯曲なので基本プロットは同じでも、スケール感が大幅に異なる為に印象が別ものになる。
『ラルジャン』『やさしい女』は19世紀が舞台の作品を現代に置き換えているので骨組みしか残っていない。
そして、『愛と哀しみの果て』と原作の『アフリカの日々』とが、共通するエピソードもありながら、まったく性質の異なる作風=メロドラマ化があって、この点が特に私には興味深い現象だった。
と、こんな事を考えている中学生がいるのだろうか? という感じがするんだが、いるんだから仕方がない。

こうして私は文藝映画にどっぷりハマってしまい、名古屋では旧作のリバイバルも頻繁にあったので、とにかく文藝映画を観ては、古本屋で原作小説を買って読み漁ったのだった。

ここで、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』が登場する。
トーマス・マンの短めの小説の映画化なのだが、私は「この映画と出逢うために生まれてきたのだ」と勘違いするほど感動してしまったのだ。

さあ、ここで、トーマス・マンが来てしまうのだ。
この頃、文藝のガイドブックとして、筒井康隆を頼りにしていて、筒井はトーマス・マンが大好きなのだった。代表作『ブッデンブローク家の人々』を読み、これまた面白いのであった。ここまで来ると、もはや「映画になっていなくても」筒井の推薦小説は読みたいのであった。『モンテクリスト伯』と間違えて『ジャンクリストフ』を読んで感動したというエピソードを筒井が書いていて、ならば両方とも読んでみたいので、両方読んで、両方ともとんでもない名作で、『モンテクリスト伯』は娯楽小説なんで度々映像化されるけれども、『ジャンクリストフ』はぜんぜんされない。未だにないので、本当に誰かに映画化して欲しい。本来ならば、前出のルキノ・ヴィスコンティが企画しても良さそうなのに、やっていなかった。ヴィスコンティはロマン・ロランが嫌いだったのだろうか?

ところで、ヴィスコンティには企画だけで実現しなかった原作小説があり、プルースト『失われた時を求めて』で、脚本は出版されていたのでこちらも読んだが、「スワンの家のほうへ」の箇所だけだったかなあ? 部分的な脚色になってて、あまり良くはなかった。
プルーストもヴィスコンティも男色(差別語の意味はない)で、プルーストの『失われた時を求めて』はほとんど私小説なんだが、実際には男だった人を女に変えているので、たしか、そこをヴィスコンティは男に戻していたような気がしたが、記憶が曖昧でちょっと間違っているかもしれない。

その他、トーマス・マン『魔の山』も企画にあったが実現せず。こちらは宮崎駿が『風立ちぬ』に、一部のイメージを引用しているのだが、やはり『魔の山』の完全な形での映画は未だに知らない。

さて、ヴィスコンティは他にもドストエフスキーの『白夜』を映画化しているのだが、これは見事な作品で、私は日本映画学校の学生のときに、淀川先生と『白夜』について語った事があるのだ。なんか自慢。

と、ここまで、映画と文藝にのめり込んだわけだから、もう後はひたすら観て、読んで、感想を考えて文章に書く、ということを繰り返した。
名古屋には名画座もあるし、古本屋も充実していたので供給も困らなかった。

とは言え、高校を卒業し日本映画学校に入学すると、もう東京の古本屋に行けるのである。
ここで、ぜんぜん手に入らなかった版切れの古典文学などを探し歩く日々が始まるのである。

つづく。

執筆者 | 22/11/16 (水) | コラム


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