みーさんと言えば「中田格言録」だよね。
いつの間にかそのように呼ばれるようになった。その呼び名は嫌いではないしむしろ率直に言って嬉しい。ただこの嬉しいという感情には、少々複雑なところもある。
毎朝、中田さんはHRで私たちに色んな「お話」をしてくれる。それは現在行われているプロジェクトの報告であったり、ご自身の体験談であったり、はたまた未来への展望であったりと多岐に及ぶ。そしてそれらの「お話」は一つのエンタメとして、メンバーを笑いの渦に巻き込み、時に涙を誘う。
しかし、それは一時的に消費してしまって良いものではない。確かに「お話」は個別具体的な内容であるのだが、それが一般論に落とし込まれる瞬間がある。それが私にとっての人生の道しるべ、即ち「格言」となる。
例えば最近もこんな言葉があった。
「誰しもが認められたいし誰しもが愛されたいんだよ。幸せかどうかは愛されてるかどうかでしかないからね。逆に”愛されてるな”って思えたら、そんなに死は怖くないのかもしれないね。」
これは『日出る処の天子』の聖徳太子が母からの愛を得られなかったことに関連して出てきた言葉だが、「誰しもが愛されたい」という一般論に落とし込んでる。
「自己肯定感」や「承認欲求」の根源が「愛されること」であることに気づかされる、まさに「格言」だ。
特に僧侶である私にとって、それを人の「今際(いまわ)の際(きわ)」にまで思いを巡らせ、愛は死の恐怖さえも超克するというというのは、格言を超えて「哲学」の域に入ったとも感じられるものでもあった。
萌さんの御祖母様が逝去されていたことをテラスの投稿で知ったのは、その日の午後だった。
この「お話」をされた時も、中田さんは萌さんのお気持ちに寄り添われていたのだ。これぞまさに「愛」ではないか。
そう気づいた時、私は膝から崩れ落ちた。
ただの格言ではない、心奥からの言葉―中田格言録―を、今日も独り紡いでいく。
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