中田さんが、最近コラムが少ないと仰せでしたので、なんらかのお暇つぶしに貢献できないかと思い、早速こちらの記事を書いています。
毎回、投稿するときには、サムネをどうしようかと迷います。
無難に風景写真にしようかと思うものの、以前永野剛さんに撮っていただいたプロフ写真で良さそげなものが出て来たので、多少でも認知してもらえると嬉しいなと思い、記事の内容と関係ないですが、自分の顔を使っていくことにしました。
私は、自分の公開日記的にnoteを更新しているのですが、自分のためだけに書いている日記とはまた違う内容になって、毎回楽しく書いています。
書くことは好きなので、publicのコラムもどんどん書こう、と思っていたのですが、思いの外、書けません。
なんで書けないのか。
理由は明確で、publicのコラムを読む方は、絶対にPROGRESSメンバーだから、です。
noteも、PROGRESSの方を含め、知人も読んだりしてくれているようですが、noteの方は、私がぜんぜん知らない人が読む可能性が高いです。
なので、所属するコミュニティごとに、無意識のうちに使い分けている、『自分のこういう側面は出さないようにしよう』をあまり気にせずに、投稿できます。
ただ、publicのコラムは、『PROGRESSではこういう沖野遥でいよう』に則っているのかどうか、分からなくなることがあり、結局、「まあ、やめとくか」となることが多いです。
あとは、特定の出来事や誰かを連想させるようなことをあまり書きたくないな、と思うと、結局何も書けなくなります。
知っている人にだからこそぶつけられる思いの丈、みたいなものもある反面、知っている人だからこそぶつけられないものもあるのだなと、感じた次第です。
あとは、無意識に自分を使い分けているのだなと言うことにも気付けたので、やっぱり私も自分大好きなんだなぁと、改めて感じています。
私のことを、誰だよ、って方もいらっしゃるでしょうし、配信もnoteもコラムも直接会っても全部一緒じゃん、って思われるくらい、微細なところなんだとは思うので、ほんとただの自意識過剰というか、気にしすぎではあると思うのですが、『PROGRESSではどういう沖野遥でいようとしているのか』を考えてみるのは、なかなかにおもしろい作業ではあったりします。
PROGRESSに限らず、職場の私、中学の同級生の中での私、高校の同級生の中での私、大学の同級生の中での私、家族の中での私、などなど、それぞれのコミュニティの中で、かつ、それぞれどんな場面なのかで、私本体は全部同じなんだけれども、ここではどんな自分が期待されているのかな?という役割を、多少は気にしているんだなと思うと、興味深いことだなぁと感じます。
こういうことは、たぶん、私だけじゃなくて、誰もがある程度起こっていることなのだと思いますが、人間って不思議でおもしろいですね。