カードゲームで「最強のデッキ」を作るのが憧れだった

執筆者 | 21/05/02 (日) | コラム

「好きな言葉は適材適所」

と言い始めたのは、

中学に入るより前だった気がする。

 

「それ良いね!」

と誰かに言ってもらえた覚えはないけど、

機会があれば言い続けていた。

多分、誰にも理解してもらえなかった。

 

その時点から薄々気づいていたんだけど、

人間関係は、どうにも苦手だった。

 

 

小学生のときはサッカー部だった。

同級生が16人もいて、

誰がどのポジションをやれば一番強いチームになるか、

それを考えるのが好きだった。

朝練も一番に行って部活を心底楽しんでいた。

 

だが、実力が足りていないことも受け入れていた。

「僕が勝手に考えた最強のチーム」にも、

実際の試合にも、

スタメンに僕の名前はなかった。

 

 

中学のときにカードゲーム(マジック・ザ・ギャザリング)にハマった。

お金もなく「カードを収集する」ことに興味がなかったので、

スリーブ(カードを保護する透明な袋)に、

ダミーの安いカードと、強いカードの名前を書いた紙切れを入れて、

強いカードとして使って遊んでいた。

 

大会に出ることや誰かに勝つことより、

強いカードの組み合わせを考えるのが好きだった。

 

 

高校生のときに同級生に勧誘されてハンドボール部に入り、

キーパーをすることになった。

校内に経験のある教師がいなくて、

試合に出る選手はチームのキャプテンが決めていた。

 

僕は、体が大きくて反射神経は人並み以上、

シュートを打つ選手との読み合いも得意で、

「向いてる」とよく言われた。

3年生が引退してしばらくして、

チームの同級生に嫌われたことでレギュラーを降ろされ

部活を辞めた。

 

僕は、適材適所という言葉が好きだった。

 

 

「世の中は人間関係がすべて」

「まず信頼関係、最後に大事なのも信頼関係だ」

 

世の中では、耳が痛くなる・・・どころか、

心の奥が万力で締め付けられるような金言で溢れている。

物心ついて以降、いろいろと考えたけれど、

どうやら認める以外ない。それは真実だ。

 

でも「人間関係がすべて」という言葉は、

「人間関係が苦手なヤツに居場所なんてある訳ない」とほとんど同義だ。

 

だからこそ僕は「適材適所」という言葉の方が僕は好きだ。

僕にとって、その言葉の持つ厳しさも含めて、なんだか救いに思えた。

 

人間関係が苦手でも、

信頼関係を築くことが苦手でも、

誰でもどこかに活躍できる場所があるはずだから。

活躍さえできれば、

それが信頼に繋がるはずだから。

 

マイナスが目立たないポジション、

マイナスを補ってくれる仲間がいる場所、

マイナスが裏返ってプラスの効果を発揮する仕事。

他のどんな場所でもプラスに働かなかった能力が、

突然日の目を浴びて、開花することもあるはずだから。

 

たまに思う。

僕が僕でなければ、高校生活の最後まで正ゴールキーパーでいられただろう。

でも僕にはできなかった。

 

じゃあ、僕の「適所」はどこなんだろう?

どの場所で僕は「適材」になれるんだろう?

 

 

高校を出てから10年。

そんな僕が得た「適所」はチームを組織する側だった。

 

親からキャンプ場を継いで社長になった。

面接で誰を雇って、誰に転職を促し、

誰にどのポジションを与えるのか、

それを選べる場所が、僕にとっての適所だった。

 

僕は必要以上に本音を見せ、

一人一人の欠点を愛するよう努力し、

「コミュ力」よりも仕事への向き合い方に評価の重きを置いた。

 

欠点を愛された人は、他人の欠点を愛し始めた。

 

本音を隠し、角のない発言をする「コミュ力」よりも、

誠実さと他者を許せる心がチームを結び付けた。

 

他の場所で認められなかった人ほど、

きちんと評価すれば、みるみると伸びた。

その人たちが、幾度もチームを救った。

 

そして僕が経営しているキャンプ場は、

2020年にキャンプ場口コミサイトで西日本1位を獲得し、表彰された。

 

やっぱり僕は「適材適所」という言葉が好きだ。

 

 

最強のデッキを作るのが憧れだった。

 

でも自分の居場所を見つけるのは苦手だった。

 

だから居場所がなさそうにしている人を見ると、

自分のことのように心がざわついてしまう。

 

どれだけ優しさで包んだところで、

社会は残酷で厳しい場所だ。

 

でも何で包むかぐらい、自分で選びたいな、と僕は思う。

執筆者 | 21/05/02 (日) | コラム


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