「クセ」こそ才能である。

執筆者 | 21/05/06 (木) | コラム

「クセ」こそ才能である。

 

つまるところ、僕は自分自身のマーケティングや分析思考は才能だと思っていた。

 

偉そうなことを言っているのではなく、「なぜそうやって分析できるんですか?」と聞かれても、理由が特に答えられないからだ。

 

多くのマーケティングの本では、マーケティングの理論や思考方法を体系化して型に当てはめて説明されているが、僕は頭の中で考える瞬間には、そんな風に型に当てはめる行為をしていない。

 

分かりづらいのでもう少し身近な例にすると、食レポをするときに「一口目に目を大きく見開いて驚きを表現した後、ん~ふ~!と口を閉じたまま鼻から発音できてかつ歓喜の声を表し、手をパタパタと動かすことで興奮を抑えられない様子を演出しよう」と考えながら「ん~ふ~!」と叫ぶ人はおらず、そういう行為はなんとなくの感覚でやっている。そういうことだ。

 

なるほどそういうことかと分かっていただけ方も、食レポとマーケティング思考を一緒にするなと思った方もいるかもしれない。

 

だが驚くことなかれ。実は僕に関して言えば、食レポをしなければならないときは、上記のように考えながらやっている。

なぜなら、僕は食レポに関して勝手に体が動くような才能はなく、何も考えないままでいると、無表情で「うまい」としか言わないからだ。

 

さて、元のマーケティング思考の話に戻るが、例えばマーケティング思考を体系的に学んだ人が、何かの事象を目の前に、「さて、このケースはどの型に当てはまるかな……?」と考えている状態というのは、この食レポの動作を頭に思い浮かべて食レポに臨む状況と似ていると思う。

 

そもそも才能ある人は、そんなことを考えなくても身体や頭が動くもので、むしろそういう人は、きちんと考えて型に嵌める方が難しかったりするのだ。

 

もちろん僕も改めて型に嵌めることはあるが、それは自分のためでなく、人に教えるときに分かりやすくするためだったりして、そういう意味では、そうした思考法の本を読むのは無意識の思考を言語化するサポートに過ぎない。

 

僕にとってマーケティング思考は、誰に頼まれるでもなく自分のフィルターを通すと勝手に発生してしまうものだ。「ん~ふ~!」と同じで、もはや自分では止められない刹那の思考。

 

そんな状態は、もはや「クセ」と呼ぶべきだろう。

 

これをお読みの皆さんも、何一つクセを持っていない人はいないはずだ。

 

 

なんでそんな風に考えるの?

 

いや~、クセなんですよねぇ。すみません、直したいんですけどねぇ……

 

 

クセというのは、往々にして悪い意味合いで使われがちだ。

 

でも、本当はそうじゃない。

 

クセは、言葉では説明できない刹那の思考。

 

そんな刹那的な思考は、もはや才能と言っても過言ではない。

 

さあ、今一度、あなたのクセを見直してみよう。

ひょっとしたらあなたも気づいていないような才能に繋がるかも知れないのだから。

 


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クセ=才能の正体は反復練習

 

しかし、そもそもなぜ自分はクセを持っているのだろうか?

物事を見た瞬間のマーケティング思考であったり、美味しいものを食べた時のリアクションであったり、味噌汁を飲まない食事スタイルであったり、音を殺して歩くことだったり。

 

人は様々なクセがあるが、そのクセは生まれついての才能によるものなのだろうか?

 

いや、僕はそれだけだとは思わない。

 

僕の考えるクセの正体は、「途方もない反復練習」である。

 

話は僕の幼稚園時代まで遡る。

 

僕は幼稚園のころから名探偵コナンが好きだった。

 

あの頃の自分がコナンのストーリーを理解していたとは思えないが、とにかく好きで良く読んでいた。

その時から僕は遺伝的に目が悪かったことで、幼稚園生には珍しくメガネをかけていて、また、幼稚園のレクリエーションでは放課後のサッカーみたいなものにも参加していた。

 

もうお分かりだと思うが、メガネ+サッカーとなると、それは当然「コナン君」と呼ばれざるを得ない。

 

僕は幼少からコナン君と言われて育ち、そして、コナン君が好きな自分もそれが嫌ではなかった。

 

そうなると当然、コナン君のような頭の良い素振りをしたくなるものだ。

 

腕を組み、顎を持ち、考えるフリをして、コナン君らしい行動を取る。

 

スケボーには乗らなかったが、インラインスケートで風を切り、ネクタイか蝶ネクタイかで言えば蝶ネクタイを選び、キック力増強シューズみたいなメカメカしい靴を好んだ。

 

シュートをするときはとにかく力を入れて蹴り飛ばして、明後日の方向に飛ぶこともあったが、自分の中では力強いシュートを打てることの方が嬉しかったのだ。

 

真実はいつも一つだから納得いくまで答えを探したし、手品を見るときはトリックを見破ろうと必死だったし、感情より論理を重視するようになったし、ついでに「バーロォ」が口癖だった。

 

今でも、「あれれ~?」とか言っている昔のビデオの存在を思い出すと頭を壁に打ち付けそうになるが、何はともあれ微笑ましい思い出だ。

 

とまあ、そんなこんなで様々な経験をしてきたわけだが、その中でも続いたことと続かなかったことはやっぱりあって、例えばサッカーは夢中になれなかったから卒園と共に辞めたし、スケートは公園しか使えないので日常的に使うことはなかった。

 

ただ、論理的思考やトリックを考えたり、考えるときに顎に手を持っていくことだったりは、いつしかクセになっていった。

 

そして、それらのクセは、今も変わらない。

 

ここに才能の答えを見た。

 

クセになっていることをしている瞬間と言うのは、繰り返し繰り返し反復練習をしている状態なのだ。この思考方法は、僕の幼少期から繰り返し繰り返し、20年以上毎日のように繰り返されている。

 

繰り返し練習をしていれば、当然練度は上がっていく。

 

ギターや絵だって、繰り返し練習すれば上達するし、感謝の正拳突きだって1日1万回を繰り返していけば音を置き去りにする。

 

思考だって同じなのだ。繰り返しその思考方法を練習すれば、自然とその対応速度は上がっていき、音を追い越した思考速度になる。

 

僕の思考は才能ではなく、ただそれだけのことだったのだ。

 

だが、それは傍から見たら「才能」に見える。

 

その上で、皆が同じように自分だけの才能を持っているんだと、僕は思う。

 

才能の正体は、クセづいて極限まで無意識化に刷り込まれた刹那の思考。そうして音を置き去りにするほど繰り返された、達人の領域。

 

きっとサッカーをやっている人は日常のなかでもサッカーのことを無意識下で考えるし、名探偵になる人は常に謎を探し続けているし、子供のフリだって100巻近くやっていればもはや本物だ。

 

そして、これは論理的思考だけでなく、感情を爆発させることも、直感で判断することも、目に見えない情報を基に敏感に判断することも同じ。

ポジティブなこともネガティブなことも、本人が良いと思っていることも直したいと思っていることも、全て思考の繰り返しが作り上げる。

 

どれが優れているわけではない。ただ日々の中で思考方法を超絶反復練習していて、クセになっている才能だ。

 

そして、その正体さえわかれば、今から才能を身に着けることも出来るはず。

 

何故なら、思考というのは0秒で0円で行える。

特別な準備は何もいらない。

 

ただ、唯一あった方がいい思考に、「思考を切り替えること」をクセづけることが出来たら、きっともっと早く、様々な思考にダイブできるようになるのだとも思っている。

 

そうして様々な思考にダイブし、挑戦と撤回を繰り返している人を、私たちは知っている。

時に何かに憑りつかれたように、一点を見据えて思考を深めていく勇姿を、日々私たちは見ているのだ。

 

私たちも、出来るだけ思考を切り替え、一日中その思考で世の中を見てみよう。

 

最初は、ついこれまでと同じ見方をしてしまうかも知れない。

それでも、思考を切り替えることがクセになるまで続けてみる。

 

そうすれば、きっと新しい発見があり、きっと新しい才能が目覚めていくはずだ。

自分がなりたかった何者かに向かって。

 

そんな時、私たちは、彼の言葉を思い出すだろう。

 

そう、私たちを勇気づけてくれたあの言葉。

 

 

真実は、いつもひとつ!

執筆者 | 21/05/06 (木) | コラム


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