サラリーマンからクリエイターになった奴

執筆者 | 21/05/13 (木) | コラム

 

こんにちわ

2020年5月入会 アリスカーナ所属の秋田と申します。

PGフォト祭り 皆さん楽しんで頂けたでしょうか

当初方波見さんからお話をいただいた時、非常に参加するか迷いました。

自分がそんな立ち位置で参加してもいいものなのであろうか

どのようなスタンスで向き合ったらいいのか

僕が参加することでちょっと堅苦しい雰囲気になったりしないだろうか

そもそもお前誰やねん

いろんなことを考えました。

秋田は実はパプリックのコラムファンでして。

みなさんのコラムをかなり楽しく拝見させていただいております。

結構、自己開示系のコラムを読むのも好きな方で、一部のメンバーからエモ中毒や誰もあなたのそんな自己開示聞きたくないからっという意見もあったりしますが、わりとそういうコラムは好きです。

そしてわりとプログレスでも長いメンバーは過去に何かしら自己開示的な発信をしている方が多いし、そんな人たちはなにかと近い存在に見えたりします。

僕も入会一年が経ち、自己紹介もかねて吐露しようかと思います。

 

※そこまでディープなコラムではないですが、割と長いので暇なかたのみ推奨です

+今回はクリエイティブ的なことは一切書いておりませんので技術的なことを求めている方は、そっとこのコラムをお閉じくださいませ

長いので少しでも見やすくしようと思って秋田の自撮りが乱立しているのですがそこもお目汚し失礼いたします。

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僕はというと、PROGRESSではおもに映像を作ったりして交流をしている人間です。

どちらかといえば配信はあまりしない方で、やっても一人で実験配信をしたりなど一方通行的な配信を少しする程度。

なので、わりとどんな人間かが客観的に見て、知らない方が圧倒的かなとおもい今回筆を取った次第です。

 

はい。フォト祭りの参加懸念の一つに僕が参加することで少し堅苦しい雰囲気になったりしないだろうかと記述しました。

先に申し上げおきますが、僕はフリーランスでクリエイターをしておりますが、独立してまだ2~3年の身で決して売れっ子ではなく、皆さんと同じように努力をして、日々勉強しております。

 

収入もバイト程度の月もあれば、企業さんの部長クラス以上の収入がある時もありますが、年収単位で計算するとまだまだprogressメンバーの個人事業主で活躍している方々に比べるとひよっこだと思います。

 

なので、僕が参加することで堅苦しい雰囲気になったりしないだろうかという懸念自体が、何様やねんという意見もあったりしますが、その理由のひとつとしては自分の性格がわりと真面目な部類に入っているかなと思ったりしております。

 

真面目=いいこと

と思う方も多いと思いますが、人間の価値観とは多種多様で真面目の部類もべつの人からみたらそんなことないと思うこともしばしば。

 

僕は結構この部分で失敗と挫折を繰り返してきました。

 

ここまでは、秋田は全然普通の人間なんだよという保険を貼りまくっているかと思いますが、一部自分でもここが少し相手に気を使わせてしまっている要因なんだなと思う部分もあったりします。

 

秋田は学生時代、どこぞの専門学校に通っていたわけでもなく、芸大出身というわけでもなく、なんの変哲もない大阪の2流大学出身です。

↑大学2回生で一切興味のない講義を聞く20代の秋田

キャンパスライフも授業そっちのけでひたすらバイトにあけくれる大学生、バイトもカフェのホールスタッフと焼肉屋2店舗を掛け持ちしてのともにホールスタッフ。

専門的なバイトをしていたわけでもなく、アルバイト代は当時大好きだった古着ファッションに注ぎ込んだり、趣味だった自転車(ロードバイクやピストバイク)に突っ込んで、サークル(バスケ)活動をそれなりに楽しむ典型的な大学生です。

 

ただ、そんな学生時代に読んでいた本は、サイバーエージェント代表・藤田晋氏の著書「渋谷で働く社長の告白」この本をすり切れるくらいに読んでいました。

 

こちらの本ですが、知らない方のために補足をしておきますと、今でこそ大企業の名前に名を連ねるサイバーエージェントの創業当時を代表目線で描いた自伝的な本です。

ぼんやりこの本を読んでかっけーとか、こんな生き方すごいよなーと思っている典型的な中二病予備軍でした。

 

そんな僕が新卒で入社した会社が創業130年の歴史を誇る老舗企業。事業内容は主に百貨店に服飾雑貨を卸す卸商社。

みなさん百貨店の主に一階ににある無駄に高いブランド傘を見たことはありますでしょうか。そう、あれ。あれを百貨店にセールスしているのが当時の僕でした。

百貨店というには皆さん想像の通り、スーパー伝統を重んじる保守的な業界です。

その業界と長い年月共に成長してきた僕の勤めていた会社ももちろんそのような社風がありました。

そんな中で、「渋谷で働く社長の告白」をバイブルにしているような若造がうまく順応できるはずもなく、実力もないくせに上司に意見したり、得意先の人とまじでやりあったりしてしまったりなど今考えるとまじで世渡りの仕方を考えろと自分に言ってやりたいような、体力だけがとりえの若手社員。

 そんなある意味問題児でも、不思議なもので月日がたつと「秋田はさぼるやつじゃない、あいつは馬鹿だけど仕事は真摯にとりくむやつ」など得意先の担当からも「今の担当より秋田君のほうが全然存在感と責任感があったよー」っという目でみてくれる先輩や後輩、お客さんもたくさんできました。しかし、大きい企業で生き抜くにはあまりにも馬鹿正直は適正がなかったように思えます。

 

 大きい組織でうまく立ち回れる人や、その中で自分の信念を崩さず上に上がっていく人とはどんな人なのかを勉強できた1社目でしたが、そんな会社から転職を決意した2社目での会社ではさらに大きな学びがありました。

 

2社目、当時27か28?くらいの時に転職した会社は1社目とうって代わり創業3年の年下の兄弟が経営しているweb制作のベンチャー企業。信用の大切さや、ベンチャーだからこそ外からの見え方なども細かく気を使っていて、大阪のあべのハルカスという日本一高いビルにオフィスを構えていました。

新しい会社での仕事は同じく営業。しかし、前職のように長年付き合いのある企業同士の関係を生かした、長い時間をかけて関係や信頼を構築していく営業スタイルとは打って変わり、新規開拓のテレフォンアポイントが始まる営業スタイル。

結果、打ちのめされました・・・

すべてが実力社会の社風で、年下の社長。年上の後輩。ふわふわした福利厚生システム。

年下の自分より後から入社した社員が昇格するのをだまって見つめる地獄。

営業職というサバイバルに耐え切れず飛ぶ社員。

競争に負け会社を去る後輩。

そんな中で、突出した成果もだしていない秋田でしたがなぜか、社長の弟から気に入られていました。それは30歳手前という実社会ではまだまだ若い部類ですが、なぜかベンチャー企業にしてみたら僕の存在はかなり安心を与えていたらしいです。(後輩からは秋田さんの特殊能力っとひがまれておりましたw)また、1社目の経験をうまく活かせていた僕は、当時の若い面々からすると成績以外は(笑)バランスの取れた人材だったのかもしれません。

そんな苦しんでいた僕に転機が訪れました

社長の弟(当時マネージャー)から呼び出され

「秋田君。一緒に東京行かへん??」

秋田「はい?」

当時イケイケだった会社は次なる一手を打つために東京進出を計画していました。

「いや、他にも候補がいるんだけど、俺結構敵もおおいし、多分うまく行かないだろうなって思ってて、秋田君とやったらうまく行ける気がするねんな」

当時から東京進出の計画は社内でも噂にあがっていて、もしかしたらくるかな・・・っとうすうす感じていましたが案の定でした。

敵が多い人でしたが、僕はその人の責任感と行動力が好きで年下でしたけど、一切そこのプライドが邪魔しないような人でした。

結果、一緒にいくことになりました。

正直この決断がなければ今の僕が東京でいろいろな人に巡り合えていないかもですし、progressにも入っていないかもですし、中田さんにもお会いできていないかもしれません。

渋谷の道玄坂上にある一階に中華屋さんがある雑居ビル。そこからの東京ライフがスタートしました。

慎重な経営スタイルの企業でしたので、会社の資金はあったとおもいますが、極力成果が出るまで無駄なコストを使わない経営スタイル。

ガチャリと東京支店の扉を開くと、こじんまりとしたワンフロアにポツンとデスクが一つ。

そこには僕を誘ったマネージャーともう一人の社員。

ネット回線をひかなくちゃっと話をしていたのを覚えています。

東京での初めての仕事はトイレのお掃除グッズを買いに行くことでした

 

 

そんな東京のはじまり

 

 

そして、マネージャー(社長の弟)と一緒にいた人物、この人物こそ僕のクリエイターとしての生活のきっかけを作った人物だったのです。

東京での生活が1年を経った頃、僕は営業職から制作課に異動をしていました。

営業での仕事に限界を感じていた僕に会社が出した策が制作チームへの異動でした。

1社目での時間をかけて関係を構築していく経験と、1社目の過ちを踏襲し、相手とのバランスをとること一つの課題として生活をしていた僕に適性が見出されらしいです。

いわゆるディレクターとしての適正です。

※正直、webでいうhtmlやcssという言語はからっきしですが、長い営業経験を積めば馬鹿でも人とコミュニケーションをとり、物事を進めるすべは否が応でも磨かれます。このディレクター経験が業種は違えど今の撮影制作でも大いに役立っております。

この適正がある意味、新規開拓というある意味攻めの営業とミスマッチだったと今となっては分析しております。

 

 

 実は物心つく頃から何かを作るということが大好きでした。

幼少の時は誰よりも早起きして録画していた映画をVHSでひたすら見たりする幼少時代。

高校時代から実はフィルムカメラを使って写真を撮っていたりもしておりました。

しかし、特殊な学校を出ているわけでもなく、特異なアルバイトなどをしていたわけでもなく、営業職しか道がなかっといえばなかったのかもしれません。

水を得た魚のように働いたのを覚えております。

しかし、ベンチャー企業のある種さだめとも言いましょうか。。。

マンパワーで回している部分がある一方であきらかに一人で担当するお客様の数にキャパが訪れはじめていました。

問答無用で受注してくる営業マン・・・ベンチャーにとって営業は非常に重要なポジションです。

なので営業マンのポテンシャルは正義ですが、そのしわ寄せは裏方にまわってきます。

会社の源泉を生んでくれる感謝の一方で、どんどん増える業務。。

そんな中、会社の不満が高まり、それが自分の中で消化しきれず、それを人に相談するというすべもあまり得意ではない自分にとって、徐々にそれは勤務態度となって溢れ出していたのも事実です。

そんな中、事件が起きました。

突然、前途に記述した人物、(当時は制作チームの責任者)が僕に対して大声で怒鳴りちらしました。

机に穴があくかと思うくらいに、机を蹴り上げ隣のフロアにも響き渡るくらいの声量でした。昔から、キレられるとこちらは逆に落ち着いて淡々と受け答えする癖があったので、逆にその態度が火に油を注いだのかもしれません。

 

そう。僕は目をつけられてしまいました。

 

当時の組織体系的に僕の直属の上司がその怒鳴り散らした責任者の彼女(恋人)でした。

制作チームは主にその彼女と僕が中心に何十人ものお客さんを回していて、後輩が数人いる程度。

当時誰にも相談できる環境などありませんでした。

僕が一つのことを粘り強くやり抜く力を養えた大きな経験でしたが、一方で組織で働くことに大きなトラウマを抱える大きな傷をおった経験でもありました。

※この会社とは今でもたまに仕事したりしていて、この責任者からも仕事の依頼があったりしていて良好な関係です

お昼の時間で会社を抜け出して、一人で別ビルの広間で泣いたのを覚えています。

そこで自分のやりたいことをしようと思ったんですね。

そこでお弁当を食べながら専門スクール説明会の申し込みボタンをおしたのが全てのはじまりでした。

専門スクールはおものweb中心でしたが、一部動画編集の授業もありました。

スキルアップという名目で一年をかけて働きながらスクールに通いました。

 

そこでの卒業制作でしっかり自分ポートフォリオを作ろうとして会社をなんの後ろ盾もなくやめました笑(ほんとになんの後ろ盾もなかったw)

2ヶ月間無収入でカリカリ作っていて、その制作物を元にある動画制作会社から内定をいただきました。

しかし、ここで僕の中で悪魔のささやきがありました。

 

「もっとやりたいことなかったっけ?」

 

この専門スクールで生活は実はすごく充実していました。それは、わりと同じ境遇だったり何かを変えたいという人材が複数いたからです。

そんなメンバーとともに一年過ごしたなかで、自分のやりたいことを追求するということが何より楽しかったんです。

 もちろん、やりたくてもやれない人から見ると羨ましい話だねっと思われるかもしれませんが、当時は決して余裕があったわけでなく、ほんとに来月どうしようかというレベルでした(それは今もあまりかわりませんがw)

そして、ずっとずっと心の中で封印していたこと、

もうこの年からできるはずがないっと思っていたこと。

それが写真でした。

ここまでくるともう頭は麻痺していて(笑)

無職だし、せっかくクリエイティブの世界に足がかかったんだから1からやってみよう。やるんだったらちゃんとしたところでやってみよう。そう思って、いただいた内定を蹴って撮影スタジオでの業務委託という名のアルバイトを始めることにしました。

スタジオマンというお仕事を始めたのです。 

30歳の冬でした。

 

スタジオマンというのはいわゆるドラマなどでよく見る白堀という白い壁で囲まれた施設ででっかい照明などを使って広告写真などを撮影するスタジオに足を運ぶカメラマンのアシスタントを毎日ひたすらするお仕事です。

日本においては商業的な写真、いわゆるコマーシャルフォトを撮るカメラマンになる王道の道はスタジオマンを2年ほど経験し、先生の弟子で何年かしたのち独立というのが王道です。(これがすべてではない)

このスタジオマンでの2年の経験が、これもまた面白ですが長くなりすぎるのでまた次の機会としておきます。

僕は年齢も年齢だったので、平日はスタジオで働き、土日は日当1万円の物撮り撮影、同時に映像の知見を深めることにコミットしておりました。

今思えばそれ以外何もない生活でした。

ただ楽しかったです。

時給900くらいで、月収が30万を越す時期もありました。

皆さんよく考えてください。この時給で30万をこすということを・・・ww

ただ充実していました。

20代をサラリーマンとして全力で働いた自負があったからこそ楽しかったのかもしれません。

↑白堀をドヤ顔でペンキ塗りする秋田

↑初めてさわる照明機材にキャッキャっする秋田

↑貯金するために毎日130円の豚肉を食べて発狂しそうになっている秋田

 

目標の貯金100万を一人暮らしをしながら貯めたのがちょうど2年の月日が経った頃でした(この資金も機材と生活費ですぐなくなる)。

 スタジオを卒業しふわふわしている中2020年5月、東京都一発目の緊急事態宣言が発令。皆初めての経験で東京都の街がゴーストタウンになった時、progressに入会しました。

当時から年齢の遅れを取り戻すには人の何倍も努力しなくてはという脅迫概念に囚われていた僕は、何か作らなくてはと思い自分の住んでいるワンルームの部屋で映像を作っていました。

その映像を当時のプログレスmovie(いまでいうシアター)に入会2日目に投稿した翌日に中田さんにピックアップしていただきました。

 

なんともいえないふわふわした気持ちになったのを今でも覚えています。

今でこそ緊急事態宣言でもかろうじて経済を回す風潮がありますが、1回目の緊急事態宣言時は皆初めての経験で社会が暗闇に包まれる中、勤めて明るくふるまい、オンラインの中で繋がりをもて希望を失わず盛り上げようとする動きが活発だったと思います。

その流れでちょうど一年がたちました。あまり親密な交流はできていませんがあの頃からいるメンバーはなんだかんだいって身内のような感覚です。

このコラムを見ると秋田は本当は写真がしたい人なんだと勘違いされる人が多いのですが、今自分の事業で大きいお金を動かしているのは映像なのが現状です。

 これは不本意と思っていなく、映像で才能を発揮(才能という言葉をつかってすみません。いまだけゆるしてください)できているのは間違い無く、写真の世界で経験がすごく活かされており、また人に何かを伝えるという意味では写真と映像は僕のなかで同意語になります。

 

同業からは総じて中途半端野郎や、そんなのできるわけないじゃん、ハック、と言われることが多く(気持ちはわかる)基本嫌われます。なので、人となりを知れている同業以外はわりと敬意をはらいますが警戒します。

うまくいかないメンバーも実際いますが、それは僕とうまくいかないだけで、敬意は常に払っております。

 それはプログレスにいるメンバーは総じて教養のある方が多いですし、純粋に前を向いている方が多いですし、本心で他者にたいして愛情を注ぐ方々も多いからです。

最近は僕如きが何かを伝えてもいいのだろうかと思う一方で、僕の現時点での知識で喜んでくれる方がいるのであればそれは還元していってもいいのではないかと思っています。

そうなるとやはり映像や写真関係で役にたつことができたらなと思って今回フォト祭りに参加いたしました。

あれ?何を書いているのか忘れてきました。

何かをやり始めると時間が経つのを忘れて延々と没頭してしまいます。

長くなってしまいましたが、最近入った人やこれから入る人ともよい関係を築けていけたらと思っています。

まぁ、いわゆるこんな人間でちょっとめんどくさい一面があったりするのですが、何かをかえようとする中田さんやメンバー、それと同時に僕もプログレスしていきたいうコラムでした

執筆者 | 21/05/13 (木) | コラム


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