名言レベル 世阿弥級

執筆者 | 21/05/30 (日) | コラム

こんにちは!昨日のホームルームで、あっちゃんが新たなる名言を生んでいたので、それについて思い出したことを書きたいと思います(*´`*)

 5月29日付のHRで、新たな名言が発表されましたね!藤森さんのすごいところは、「華を保っているところ」「華は努力しないと枯れてしまう」というものです。これを聞いて、風姿花伝を思い出した人は私だけではないでしょう。そんなわけで、今回は、世阿弥著「風姿花伝」のお話です。

風姿花伝って何?

 日本史を専攻していた人は観阿弥・世阿弥と風姿花伝はセットで覚えたのではないでしょうか。

 世阿弥(ぜあみ)は室町時代初期に父の観阿弥とともに活躍した、申楽(さるがく)師です。申楽とは、お能や歌舞伎といった伝統芸能の基ともなった舞であり、世阿弥は能に関する多くの著作物を残しています。その中でも最も有名なのが、「風姿花伝」(ふうしかでん)です。能の書が何故現代でも読み継がれているのか。それは、能や狂言以外のあらゆる芸事に通ずる芸の本質が書かれているからです。

 風姿花伝でもっとも大切に語られているのが、「花」という概念です。

「能に花を知る事、この條々を見るに、無上の第一なり。肝要なり。」(能において花を知るということは、この「風姿花伝」の条々を参照するにつけても、この上なく重要であり、もっとも大切な要点である。)

「花」を一言で説明するのはかなり困難ですが、平たく表現すれば「魅力」ということになろうかと思われます。この「花」、「時分の花」と「まことの花」という表現が出てきます。「時分の花」が一時的な魅力ですぐ散ってしまうのに対し、「まことの花」は永遠の魅力であり咲かせる方法も散らせる方法も意のままだと記してあります。そして、「時分の花」の代表格が、若さです。

すぐ散る若さ

 世阿弥は若さ故に、芸事を極めたと思いあがることの弊害も説いており、その若さが溢れる年齢が24、5歳ごろだと記しています(数え年ですので、現代人からすると23、4歳となりますが、概ね20代の中頃から後半のことと解釈されます)。

「この頃の花こそ初心と申す頃なるを、極めたるように主の思ひて、はや申楽にそばみたる輪説をし、いたりたる風体をする事、あさましき事なり。」(この時期こそは、たとえ花が一時的であったとしても、初心時代というべき時期なのに、もう申楽の世界を極めたかのように自分で思って、さっそく申楽について的はずれの独善的見解を開陳し、名人気取りの演技をするのは、嘆かわしいことだ。)

 なるほど、それぐらいの年齢の時には勢いづいて、俺には才能がある、とか、今は自分を安売りしてるだけ、とか言っては、さも芸事とは何かがわかったような口を聞く人は多いように思います。自身の経験を語ると、博士号すら持ってないのに法律に精通しているみたいな顔をする人はたくさんいましたし、レコードデビューもしていないのに音楽とはなんぞやを語る人も大勢見ました。たとえ爆発的に人気が出ても、それは「時分の花」であり、すぐ枯れてしまうのだからその自覚を持って精進しなければいけないよ、と世阿弥は記しています。

散らない花はない

 「時分の花」がすぐ枯れてしまうのに対して、「まことの花」は咲かせるのも散らせるのも意のままだ、と上述しました。確かに、若さはあっという間に過ぎ去るので、すぐ枯れるというのは納得です。では、まことの花を咲かせる、散らせるとはどういうことなのでしょうか。風姿花伝には、こういう記述もあります。

 「いづれの花か散らで残るべき。」(どんな花が、散らずにいつまでも咲いているであろうか。そんなことはあり得まい。)

 「能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風体に移れば、めづらしきなり。」(能も、同じところに停滞し続けないことを、能の花の第一条件と認識せよ。いつまでも同じことをやっていないで、別の演目に変えていくことで、新鮮さが出るのである。)

 まことの花だって、何もしていなければ散るのです。だからこそ、同じことの繰り返しではなく常に新しいことをやっていなければいけないよ、と言っているのです。一言で言うと、不断の努力で芸を磨き続けよ、と言うことかと思われます。

何が名言だったのか

 さて、前振りが長くなりましたが、あっちゃんは言っていました。藤森さんに花があるのは、不断の努力の賜物だと。これは、まさしく世阿弥が、花は散るから同じことを繰り返していてはいけない、と記したことに通じると言えるでしょう!!

 藤森さんの若々しさや、お洒落で流行に敏感なのも、ちょっとでも気を抜いたらすぐ失われてしまいます。すぐ散る花です。それでも、長年若々しさを保っている(というか、このところ若返っている気がする)のは、常に健康を保っているからでしょうね。きっと、暴飲暴食はしないし、賭け事にのめり込むこともない気がします。 世阿弥は、こうも言っています。

「好色・博奕・大酒。三重戒、これ、古人の掟なり」

やっぱり、昔から酒やら賭博やらはいいことないってわかってたんですね!

おまけ(30代後半が勝負!!)

 世阿弥は、年齢ごとに分けて芸事の諸々を書き記しているのですが、それによれば、34.5歳(30代後半)は、「盛りの極め」(芸の絶頂期の境目)なのだそうです。30代後半で「花」を極めていなければ40代から芸が下がる、とも書いています。要は、30代後半が勝負時ってことですね!あっちゃんは30代後半なのでなんだかドキドキしますね!!

 ちなみに、世阿弥は50代以降は「せぬならでは手立あるまじ」(まったく何もしない以外には、方法があるまい)と書いています。「麒麟も老いては駑馬に劣る、と申すことあり」(千里の名馬も老いては凡馬に劣ると言うことわざがある)。歳を取ると千里をかける名馬でも並の走力しかない馬に負ける、すなわち歳をとるといかに名人でも凡人に負けてしまう、だから表舞台から去るべきだ、というのです。現代人の感覚では、50代で引退は早すぎる、とも思えますが、これが80代、90代なら納得できるところも大いにあります。

 

 ただ、志在千里(しざいせんり)という言葉もあります。

 三国志好きの方はよくご存知であろうこの言葉。曹操が読んだ漢詩「歩出夏門行」(ほしゅつかもんこう)の一部が四字熟語として残ったものです。年老いた名馬は、厩に伏していても千里を駆ける志は捨てない、つまり、歳をとっても高い志は持ち続ける、という意味です。個人的な好みはこちらですね!

神亀雖寿
猶有竟時
騰蛇乗霧
終為土灰
老驥伏櫪
志在千里
烈士暮年
壮心不已

神亀は寿(いのちなが)しといえども
なお終る時あり
騰蛇は霧に乗ずるも
終には土灰となる
老驥は櫪に伏すも
志は千里にあり
烈士暮年
壮心やまず

(世阿弥が引退したのは60代なので、50代以降は引退すべきというのは、52歳で死去した父、観阿弥への哀悼の意と考えます。)

余談

 名言で思い出したのですが、RADIO FISH (feat.May J)のNEW GODという歌で「 New god’s in his heaven」「All is right with the world」という歌詞がありますよね。これ、上田敏が「海潮音」として翻訳したことで有名なロバート・ブラウニング作「ピッパが通る」の一部「God’s in his heaven    All is right with the world!」のモジりだと思っていたのですよ。こんな名言を自分を褒め称える歌の歌詞に入れ込めるなんて、凄すぎる!と思っていたのですが。

 なんだか、作詞した中田敦彦さんと上田敏もロバート・ブラウンングもイギリスも全然結びつかないなぁと感じていたんです。で、今朝、ググってみてわかりました。これ、「God’s in his heaven    All is right with the world!」って、エヴァンゲリオンのNERVのマークの下に書かれてるんですね!!絶対こっちだ!こっちをモジったんだ!!

 違ってたらこめんなさい。

 ではまた(*´`*)

 

参考文献

「風姿花伝・三道」世阿弥 竹本幹夫  *上述の()内の現代語訳はこちらの引用です

「風姿花伝」世阿弥 野上豊一郎 西尾実 校訂

「ブラウニング詩集」富士川 義之 編

 

(「三国志」陳寿 (ちくま学芸文庫))

執筆者 | 21/05/30 (日) | コラム


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