自分は何をすべきか
「 自分はなにをすべきか。」人間は自問し意思決定をしなければならない。
そしてその決定責任を自分で負わなければならない。たとえそれが気分的な了解であったとしてもだ。
「君は自由だ。選びたまえ。」
「人間は自由の刑に処されている。」
J-P・サルトル
「好きなことをやればいいんだよ。」などと聞くと冷たさを感じる。すでにに大海に放り出されている人間はどうしたらいいのか。右に行けばいいんですかそれとも左ですか、そもそも右ってなんですか。
そして自由の苦痛に耐えかねた人は強いリーダーを求める。だが、そのリーダーが権力を振りかざすものなら「自由にさせろ!」と革命がおこる。また振り出しに戻る。このループから抜け出さなければならない。
はなしはズレるが、その点において日本は不思議な国だと思う。全く権力者が不明確なのだ。さかのぼれば鎌倉時代、自然発生的に幕府が生まれ実質的権力は幕府が持つようになった。しかし、武家は全く天皇を排斥してしまうようなことはしなかった。むしろ天皇を尊重し、なにをするにも許可を取っていたという。いくらか戦いはあったみたいだが、西洋の絵でよくみる王族を大衆の前に見せしめにし、ギロチンにかけてしまうようなことを日本人はしなかった。現代においても象徴天皇として残っている。この天才的体制はいかにしてできたのか、申し訳ないがこれについての解説は持ち合わせていない。
民衆組織についてもそうだ。からかさ連判状をご存じだろうか。円形になるよう著名された証文である。社会化の教科書でよく目にしたと思う。外部の人間が見たとき代表者がわからないようにした、というのが一般的解説であるがそれ以外の意味もあると私は思っている。とにかく、日本人はそういったことができる精神性を持っている。
そして日本人はその精神的何かを形にし世界へと届ける義務がある、というのが私の大願である。
自分の使命の見つけ方
さて、はなしを戻そう。自分の使命の見つけ方なのだが、私はかなり苦しんだ。今もまだ怪しい。やってみては挫折を繰り返すばかりだからだ。
以前からやってみたいと思っていたものに手を出してみる。だが、なんか思い描いていたのとちがう。そんなはずないと試行錯誤してみるのだが、意識的な行動は垂れてくる。最終的に私は本当それに魅力を感じていたのだろうか、と自分を疑ってしまう始末。疑いは否定である。離れなければならない。
従来の私は「向き不向き」という概念を嫌っていた。そんなの言い訳だろうと。しかし、向き不向きはある。今の私は「人には向き不向きはある」と経験的実感的直観的に理解している。
したがってまずは、自分自身のことを知らなけらばならないわけだが、それには便宜上「外よりの人」か「内よりの人」か二分して考えるとよいことに気がついた。
私は自分が内よりの人であるにもかかわらず、外よりの人がやることばかり手を出し途中でくじけていたのである。
外よりの人
では「外よりの人」「内よりの人」とはなんなのか。
まず外よりの人とは、社会へ積極的に参加していく人である。実業家や政治家がその代表である。いつの間にか人が集まっているような人、リーダーのような人である。その人は常に友達に囲まれて楽しみたい、とか単に寂しいとか、とにかく多を求めるのが根である。
外よりの人は、「金」と正面から対峙しなければならない。金を集め、それをよいことに使う事を求められる。金を集められるというのは素晴らしい能力である。才がなければ集まらない。その才とは一体なんなのかということなのだが、大変うすっぺらな見解で申し訳ないのだが、「ちゃっかりしている」というのがそれであると思っている。
私が「こんなことでお金とるのは申し訳ないなぁ」と思うことも、ちゃっかり人は「3000円です!」などと平気で言ってのける。それで客が不満そうなら問題なのだがそういうのが出ない雰囲気がある。それはある種才能なのだと思う。
金の才がなく、大金を集められなくてもよい。それでも事業を起こすことはできる。「金を集め、それをよいことに使う事を求められる」この「使う事」だもっとも大事だ。「金」については別の機会に哲学的テーマとして詳しく述べていきたい。
ここでは簡単に「金そのものには価値はなく、使うとき価値が発生する」とだけ記しておく。持ってても意味がない。使ってこそである。
内よりの人
次に内よりの人について述べていきたい。
内よりの人は社会への参加に消極的である。芸術家や哲学者がその代表である。一人でいることが好きな人、創造的な人である。とにかく、一を求めるのが根である。
内よりの人は、社会との接し方に苦悩する。全くノータッチというわけにはいかないし、舞台上にあがったら苦しい。自分が成長するに連れて社会との距離が近くなっていく。気づかれたが最後、舞台上に吊るしあげられ値段が決められ評価が下される。
鎌倉時代の思索の天才たちが人生終盤、山へこもってしまうのはなぜなのか。自分の思想を理解しない人々に呆れたからではない。「社会から距離をとって生活したい」という性質なのだ。
内よりの人はとにかく生産すればよい。思想や大願や不満など何でも表現すればよい。学問的な記述などしなくてよい。そのままに表現すればよい。その表現には現代の全てが染み込んでいるはずである。その意見からとんでもないアイデアが生まれたりする。それを実行に移すのは、外よりの人に任せておけばよい。とにかく生産することだ。
読むことも生産することに含まれる。文字は単なる記号の羅列にすぎない。そこから意味をとって解釈するのだからこれも生産なのだ。読めばよい、見ればよい、生活すればよい、ぼーっと風を感じるだけでよい、ただ座ればよい。
いずれ動き始める日がくるはずだ。読んで書く!考えて書く!なぜか思いついたから書く!日本に全く誰が作ったかわからないお地蔵さんがそこらじゅうにあるのは、そういったところからなのだろう。字も書けない人たちが、あふれた思いを表現するため地蔵を作ったのだ。
まとめ
何をすべきかは外か内かで考えると見えてくる、というのが今回の内容である。社会という舞台で踊りたいのか、裏方にまわるかである。なんにせよ見てるだけは苦しい。生産することによって個人となれる。人らしく生きられる。
書き終わって見返してみると、謙虚さの足りない文章だと恥ずかしい。
これは私が悩んできた道のりであり、ノートをまとめたものである。誰かの役に立つところがひとつでもあればと思って公開を決意する。
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