茶の湯サスペンス〜始まりは切腹〜

執筆者 | 22/01/19 (水) | コラム

こんにちは!キャシーです。

 相変わらずHRでお茶が話題にあがっていて嬉しいです。

 今回のコラムは、前回とは趣向を変えて歴史のお話です。表千家に裏千家、武者小路千家に江戸千家。「なんかいっぱいあるけど、どういうつながりなん?」と思っている方に読んでいただければ幸いです。

 ちょっとでもお茶をかじったことのある人なら、絶対に聞いたことのある偉人たちですし、聞いたことがない人でも知るととても趣深いものなので、ぜひご覧下さい。

処されたくない2代目

 千家茶道の創始者が千利休だということは、おそらく小学生でも知っているでしょう。でも、その子供、千家二代目は誰かと問われて即答できる人は少ないのではないでしょうか?

 それもそのはず。利休の後を継いだ二代少庵(しょうあん)は、千家茶道の伝承を明確には伝えていないのです。このように書くと、「二代目が凡人だったのか。」と思われそうですが、ことはそう単純ではありません。

 利休は、これと言った罪状がないにもかかわらず切腹を命じられており、少庵自身も蟄居(ちっきょ:刑の一種。一室に謹慎する。)させられています。そのため、千家流を大々的に継承することは身に危険が及ぶ可能性があったのではないかと思います。耐え忍び、ひそやかに千家を繋ぐことに注力したのではないでしょうか。その甲斐あってか、少庵48歳のときに千家は再興が叶います。

3代目は乞食

 少庵には、利休により大徳寺に預けられていた子供がいました。少庵は千家再興後、この子を還俗させます。そして、この子は、宗旦(そうたん)と名乗り、利休の公的な側面を一切排除した上で私的な側面である「わび」を探究し、その普及に腐心します。現在、我々が享受する千家流の基礎を確立したのは、この宗旦なのです。

 宗旦は、俗に乞食(こじき)宗旦と呼ばれ、そのわびの追求は極限にまで達しています。

 なぜ乞食なのかと問われれば、宗旦は武家に出仕しておらず生活が苦しかったからです。 

 この当時、一般的に茶人は武家に出仕して茶道指南役のような役割を果たすことで禄を食んでいました。簡単にいうと、武家に勤めて給料もらう感じです。その中で、宗旦は決して出仕しなかったわけですが、これは単純に彼の趣味嗜好という問題ではなく、若き日に利休の切腹を経験したことが強く影響していると思われます。千家存続のためなのか、遺恨なのか。筆者にはわかりませんが、一言では言い表せない複雑な感情であったことは間違いないでしょう。

 ただし、宗旦は自身の子どもたちの出仕先については、自ら奔走します。そして、それが結実し子どもたちはそれぞれ、武者小路千家、表千家、裏千家のいわゆる三千家を確立するのです。今、我々が千家流茶道を体験できるのは、この宗旦の尽力の賜物なのです。

模索する7代目

 さて、時代とともに趣は変化を遂げ、表千家六代覚々斎のときに宗旦の「わび」とは異なる豪華絢爛な趣が登場します。その華々しい様は当時の人々に受けが良かった反面、古典を重んじる人々からの反感も買いました。伝統を重んじる人とアバンギャルド思考の人がいるのは、いつの時代も同じなのですね。

 そこで、表千家七代目如心斎(じょしんさい)が出した答えは、利休回帰でした。利休以来伝承する道具を「利休形」としてまとめあげ、また「七事式」(”茶の湯の精神、技術をみがくために制定された稽古法”、””内は下記参考リンクより引用)を制定するなど、その功績は計り知れません。

持つべきものは友

 そんな如心斎が、どうしても取り返したかったものがありました。それは「利休遺偈」(りきゅうゆいげ)。平たくいえば、利休の辞世の歌の原本です。利休遺偈は、利休の娘婿に貸したら帰ってこなかったようで、それから人手にわたり永らく行方不明になっていました。

 それが、(おそらくは表千家六代覚々斎のときに)豪商である冬木家の手にあることがわかります。当然、如心斎は返還してくれるよう懇請するのですが、交渉はなかなかまとまらなかったようです。このとき活躍したのが、如心斎の命により江戸で千家流の茶湯を広めていた川上不白(かわかみふはく)です。全幅の信頼をおかれている彼が幾多の交渉を経て、ついにこの利休遺偈は家元に戻されました。

 遺偈が戻された時にはすでに病の床にあった如心斎はその翌々年、47歳の若さでこの世を去ります。如心斎の後を継いだのはわずか8歳の啐啄斎。不白は、啐啄斎を補佐しつつ江戸と京都を行き来し、ますます江戸で千家流茶の湯を広めていきます。

 これが、江戸千家のはじまりです。

最後に

 ざぁ〜〜〜っと見ただけでも、「千家もいろいろ大変だなぁ」って感じがしますよね。400年続く千家といえども、最初から伝統と格式があったわけではないので、苦難の時期は度々訪れるわけです。急に尊敬される人や流派なんて存在しないんですね。その後、世界大戦などがあり苦難の時代はまだまだ続くのですが、それはまた今度。

 今日取り上げたのは、少庵を除いてメジャーオブメジャーの茶人ばかりなのですが、掘り下げればもっと大変なことはたくさんあります。茶の湯は、お点前や美術品に目が行きがちですが、それらを鑑賞するにつけても歴史を知っているのと知らないのとでは、感性に雲泥の差が生じます。こういうところも茶の湯の魅力ですよね。

 個人的に好きなのは、如心斎と不白の関係性と交渉の経緯です。紙面の都合上、長々とは書きませんでしたが、かなり胸熱なので機会あがれば記事にしたいと思います。

ではまた・:*+.(( °ω° ))/.:+

*主要参考文献*

・根津美術館特別展「江戸の茶の湯」図録

・不白筆記 付・孤峯川上不白道具帳写 川上宗雪 中央公論新社

*主要参考リンク*

・表千家不審菴 茶の湯こころと美

 

執筆者 | 22/01/19 (水) | コラム


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