中田敦彦の強さとは何か?

執筆者 | 22/01/23 (日) | コラム

 

 

前回のコラムにて『win3 part4に見た中田敦彦の優しさ』について書いた。「優しさ」について書いたなら、対となる「強さ」について触れないわけにはいけない。

この牛宮城事件において良くも悪くも最もクローズアップされたのが、「中田敦彦の能力の高さ」だ。

 

とりわけ、「中田が自分をよく見せるための演出で、言わば詐欺師」というコメントは、表層的な「中田敦彦の能力」に目が向いた結果なのではないかと思うのである。

趣旨としては、「よくわかってない連中相手に、一人まともな奴がまともな話をしているだけだ。あれはちょっと経営を知っていれば誰にでもできるし、大袈裟に褒めている君達は騙されているようなもんだ。そうもてはやすもんでもない。」といったところだろうか。

では、あの事件を目の当たりにした人々は、中田敦彦の高い能力に称賛の声を送りたかったのだろうか?

 


 

確かに動画のコメント欄では、能力の高さの内容が多い。

しかし、基本短文でかかれるコメント欄は、一言で表現しやすい「中田敦彦の能力」部分がクローズアップされやすいのではないか?

動画を見た一瞬では表現しきれない想いが、あのコメント欄の向こうにあるのではないか?

そのような深読みを、僕はしてしまう。

そして、僕が思うコメント欄の向こうの想いとは、

『あの火中に飛び込み、そしてあの場に立っていること』

そのものへの驚嘆と賛辞の声なのではないだろうか、と思うのだ。

 

試しに想像して欲しい。

もしも自分に、あっちゃんと同じ能力があったとしたら。

同じようにあの場に飛び込めるのか?

世間に注目されるプレッシャー、失敗できない状況、相手が聞く耳を持ってくれるかわからない不確実性への不安。

世の「中田敦彦と同等の能力」を持つ人たちは、同じ境遇に立たされたとしたら、やはり同じように飛び込んだのだろうか?

僕は思う。皆が心動かされたのは「中田敦彦の能力」ではない。

あの場において、一歩も引かない「中田敦彦の強さ」に感動を覚えたのだ。

 


 

僕は、前回のコラムで「あの場にあっちゃんが立った理由は、宮迫さんを助けたいという『優しさ』だ。』という趣旨のことを書いた。

でも、皆が思うように、『優しい』だけでは問題を解決できない。

何故、あの場に立ったのか?の答えは『優しさ』だが、

何故、あの場に立てるのか?の答えは『強さ』だ、というのが僕の答えだ。

では『強さ』とは何か?

 

あっちゃんには、色んな能力があるから困難を乗り越えられるのだろう、と思う人もいるかもしれない。

しかし、あっちゃんに特殊能力がなければ、あの場にいなかったのだろうか?

類稀な分析力やプレゼン力、説得力、俯瞰で見る力。

例えそれらの能力がなかったとしても、あっちゃんはあの場に立っていたような気がしてならない。

 


 

なぜ、そう思うのか?

2022年1月22日のHRで気づいたことがある。

茶道の話題で、「シュリンクする茶道の世界を自分の伝える力で盛り上げたい」との趣旨の発言があった。なぜか初めて聞くフレーズにも思えないのは、僕だけではなかったのではないか。

そう、中田敦彦は「盛り上げたい」人なのだ。

つまらないよりかは、おもしろくしたい。

あきらめるよりかは、悪あがきする。

死する美学よりも、生の苦しみを選ぶ。

「活きる」ことに美しさを感じ、そうでないものを目の当たりにしたときに、それをなんとかしたくなるのではないか、そういう信念を持った人なのではないか。

だからこそ、あの場に立ち続けることができたのだ。

 

『生きるって楽しい』

その信念こそが、「中田敦彦の強さ」の源泉になっている。

あっちゃんの各種能力たちは、それを実践するために選び取った“石ころ”にすぎない。

そう僕は思っている。


90 ビュー
11いいね!
読み込み中...