こんにちは。2020年7月入会の中川あゆみです。
明日3月21日まで、齋藤智成さん東日本大震災から10年の想いを綴った楽曲と、復興支援寄付の企画が開催中です。
その楽曲に僭越ながら音楽ど素人一般人のわたしがボーカルとして関わらせていただきました。
2021.3.11配信
震災ボランティアのお話を伺います。
10年前の3月11日に何をされてましたか
齋藤智成さんのお歌がヤバい!泣ける歌詞を深掘り
寄付についてはこちらのコラムも参考になさってください。
クラファンと返金を考察する
あの日のこと
2011年3月11日14時46分。
あの時、わたしは汐留の会社に勤務していました。
大きな揺れに、香川県で経験した「阪神淡路大震災」のトラウマが甦り、青ざめました。
そして程なく、全面ガラス張りの向こうにあるお台場の工事現場が爆発。黒煙がみるみる大きくなり、こちらに流れてきて、やがて建物が煙に包まれて薄暗くなりました。
フロアではニュースで津波などの被害速報を見て悲鳴が上がっていましたが、わたしの思考は他人事モードに入り、仕事に戻って情報を遮断しました。
この時期は汐留の会社を定時で退社した後に麹町のオフィスに勤務するダブルワークを行なっていました。
困ったことに電話もメールも繋がらなくなり、麹町オフィスの状況がわかりませんでした。
仕方ないので定時で退社して麹町に向かうことにしました。
エレベータが止まっています。非常階段で降りるしかありません。
わたしはまだ低層階のためたいしたことありませんでしたが50階くらいから降りてきたらしき社員が言いました。
「携帯忘れた(絶望)もう取りに戻るのは無理だ」
心の中で「ご愁傷様です」と呟きました。
電車が止まっているせいで地上に人が溢れていました。
紙の地図を手に持ち、ヘルメットを被ってビル街を歩いている様は異様でした。
わたしは汐留の会社も麹町の会社も徒歩で通勤していたのでこの混乱とは無関係でした。
その移動中に永田町を通ります。
そこでたくさんのお弁当を手にした2人組の男性に追い越されました。
「おれたち勝ち組だな」
「こんな時こそ東北に恩を売るんだよ」
驚いて顔を上げました。
その二人は議員会館へ消えて行きました。
ああ、民間で助け合わないとダメだなと心に刻まれた瞬間でした。
大きな道路「新宿通り」に出ました。
そこは渋滞なんてものではなくて、ほぼ駐車場でした。全く動かない車が見たことない数並んでいました。
いつもはまばらな歩道もまるで初詣。
地震発生から麹町まで徒歩で見た大混乱の景色に不安に襲われていました。
麹町のオフィスにつきました。
「あら!きちゃったの?会議室に飲み物と食べ物用意しているから適当にどうぞ~」
「どうせ帰れないんだから仕事しよ~ぜ~」
拍子抜けでした。この会社は年度末は激務で徹夜や会社に泊まる人も多く、何より、転職回数が多く様々な会社を見てきた中で、この会社は頭の回転がとても速くポジティブで「できる人」の集まりでした。
ほっとしました。
きっと生き残るのはこんな感じの逞しい精神の人なんだろうなと思いました。
19時~22時の就業予定でしたが、どうせ電車が止まっているので日付が変わる前まで作業に没頭しました。
「電車動き出したって~」
そんな声を聞いたのは23時をすぎてからだったと思います。
そのころは女4人のシェアハウスに住んでいました。
防犯の面でも、離れて暮らす家族を安心させるためにもシェアハウスで良かったと心底思いました。
そして出会った企画
それから色々なんやかんやあって、自分の人生では無縁だと思っていたボランティアをはじめることになりました。
そして10年目の今年にPROGRESSの廊下で齋藤智成さんのつぶやきを目にして、何かできることはないだろうかと手を挙げさせていただきました。
しかし受け取った楽曲に愕然としました。
①メロディむずっ!!!
②息継ぎのタイミングがない!!!
③切ないメロディと歌詞で泣いて歌えない!!!
これをクリアするのに一週間かかりました。いきなりフルマラソンチャレンジのようでした。
レクイエムだと理解してからなんとか歌えるようになりました。
そんなお歌の中川号泣ポイントはこちら
流れつく海がすべて飲み込めばいい
CMが「エ~シ~」で溢れていた頃、「海」「津波」がセンシティブでした。
それを当事者の方がこの言葉を使うのかと、ヘビーなパンチをみぞおちに食らいました。
2番の歌詞全部
突然失ったもたちとただ寄り添うことしかできなかった避難所生活を連想させられ、泣かずにはいられません。
変わりゆく街が殺めてゆく面影
復興と故郷への郷愁、あの時の記憶が薄れていく世の中への嘆きのよう。
最後に
寄付はもちろん自由です。ご賛同いただける方はぜひお願いしたいです。
これは金額を集める寄付ではないと思っています。
「忘れてないよ」と10年経ってもなお寄り添ってくれる人がいることがすごい応援のエネルギーなのです。
震災ボランティアで無力を感じていた頃、「とにかく忘れないでいてくれたらいい」と言われてたものでした。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。