「好きな言葉は適材適所」
と言い始めたのは、
中学に入るより前だった気がする。
「それ良いね!」
と誰かに言ってもらえた覚えはないけど、
機会があれば言い続けていた。
多分、誰にも理解してもらえなかった。
その時点から薄々気づいていたんだけど、
人間関係は、どうにも苦手だった。
※
小学生のときはサッカー部だった。
同級生が16人もいて、
誰がどのポジションをやれば一番強いチームになるか、
それを考えるのが好きだった。
朝練も一番に行って部活を心底楽しんでいた。
だが、実力が足りていないことも受け入れていた。
「僕が勝手に考えた最強のチーム」にも、
実際の試合にも、
スタメンに僕の名前はなかった。
※
中学のときにカードゲーム(マジック・ザ・ギャザリング)にハマった。
お金もなく「カードを収集する」ことに興味がなかったので、
スリーブ(カードを保護する透明な袋)に、
ダミーの安いカードと、強いカードの名前を書いた紙切れを入れて、
強いカードとして使って遊んでいた。
大会に出ることや誰かに勝つことより、
強いカードの組み合わせを考えるのが好きだった。
※
高校生のときに同級生に勧誘されてハンドボール部に入り、
キーパーをすることになった。
校内に経験のある教師がいなくて、
試合に出る選手はチームのキャプテンが決めていた。
僕は、体が大きくて反射神経は人並み以上、
シュートを打つ選手との読み合いも得意で、
「向いてる」とよく言われた。
3年生が引退してしばらくして、
チームの同級生に嫌われたことでレギュラーを降ろされ
部活を辞めた。
僕は、適材適所という言葉が好きだった。
※
「世の中は人間関係がすべて」
「まず信頼関係、最後に大事なのも信頼関係だ」
世の中では、耳が痛くなる・・・どころか、
心の奥が万力で締め付けられるような金言で溢れている。
物心ついて以降、いろいろと考えたけれど、
どうやら認める以外ない。それは真実だ。
でも「人間関係がすべて」という言葉は、
「人間関係が苦手なヤツに居場所なんてある訳ない」とほとんど同義だ。
だからこそ僕は「適材適所」という言葉の方が僕は好きだ。
僕にとって、その言葉の持つ厳しさも含めて、なんだか救いに思えた。
人間関係が苦手でも、
信頼関係を築くことが苦手でも、
誰でもどこかに活躍できる場所があるはずだから。
活躍さえできれば、
それが信頼に繋がるはずだから。
マイナスが目立たないポジション、
マイナスを補ってくれる仲間がいる場所、
マイナスが裏返ってプラスの効果を発揮する仕事。
他のどんな場所でもプラスに働かなかった能力が、
突然日の目を浴びて、開花することもあるはずだから。
たまに思う。
僕が僕でなければ、高校生活の最後まで正ゴールキーパーでいられただろう。
でも僕にはできなかった。
じゃあ、僕の「適所」はどこなんだろう?
どの場所で僕は「適材」になれるんだろう?
※
高校を出てから10年。
そんな僕が得た「適所」はチームを組織する側だった。
親からキャンプ場を継いで社長になった。
面接で誰を雇って、誰に転職を促し、
誰にどのポジションを与えるのか、
それを選べる場所が、僕にとっての適所だった。
僕は必要以上に本音を見せ、
一人一人の欠点を愛するよう努力し、
「コミュ力」よりも仕事への向き合い方に評価の重きを置いた。
欠点を愛された人は、他人の欠点を愛し始めた。
本音を隠し、角のない発言をする「コミュ力」よりも、
誠実さと他者を許せる心がチームを結び付けた。
他の場所で認められなかった人ほど、
きちんと評価すれば、みるみると伸びた。
その人たちが、幾度もチームを救った。
そして僕が経営しているキャンプ場は、
2020年にキャンプ場口コミサイトで西日本1位を獲得し、表彰された。
やっぱり僕は「適材適所」という言葉が好きだ。
※
最強のデッキを作るのが憧れだった。
でも自分の居場所を見つけるのは苦手だった。
だから居場所がなさそうにしている人を見ると、
自分のことのように心がざわついてしまう。
どれだけ優しさで包んだところで、
社会は残酷で厳しい場所だ。
でも何で包むかぐらい、自分で選びたいな、と僕は思う。