こんにちは!キャシーです。
最近、facebookがメタに名前を変えたことがニュースになりましたね。ザッカーバーグ ってまだまだ革新的だなぁ、と思いながらも、いつまで第一線で活躍できるんだろうか、とも思ってしまいます。GAFAMの中で、facebookのザッカーバーグ以外の創業者は皆さん事業から退いていますからね。そして、昨日(11月30日)、twitterのジャック・ドーシーもついに退任しました。
偉業を成し遂げた人物でも、去り際や引き際が美しいとは限りません。企業でいえば後継者問題やそれに端を発する内部紛争が起こることは稀ではないですよね。
そこで、今日は中国古典の「三国志」から、引き際の失敗例をみていこうと思います。昔の話と侮るなかれ。どこかで聞いたような話ばかりですよ。
*以下の文中の「」内はすべて、下記参考文献より引用いたしました。
偉人であることに疑いの余地はない
今回ご紹介したいのは、三国志の中でも超有名人物、孫権です。名前は歴史に詳しくない方でも聞いたことがあるでしょう。魏・呉・蜀で知られる三国志の一国、呉の皇帝に上り詰めた人物です。曹操や劉備、諸葛亮の影に隠れていまひとつ活躍している感がありませんが、実はとっても優秀なのです。
孫権は、父孫堅、兄孫策が相次いで亡くなった後、わずか19歳(数え)で家督を継ぎます。孫策は死に際して孫権を呼び寄せ、こう告げたそうです。
「江東の軍勢を総動員し、敵と対峙しつつ機を見て行動をおこし、天下の群雄たちと雌雄を決すると言ったことでは、おまえはおれに及ばない。〔しかし〕賢者を取り立てて能力のある者を任用して、彼らに喜んで仕事に力を尽くさせ、江東を保ってゆくといったことでは、おまえのほうがおれよりも上手だ。」
要するに、実戦で闘うのは得意じゃないけれど、優れた人物を見抜いて採用することには長けている、と言われたのです。この孫策の言葉通り、孫権は人材登用に才能を発揮し、呉を導きます。
詳しいことは省きますが、平民から魯粛(ろしゅく)を取り立て、一兵卒だった呂蒙(りょもう)を抜擢しました。他にも、呂蒙を助けて関羽討伐の足がかりを作ることとなる陸遜(りくそん)を見出すなど、人材を見抜く目は超一流。これらの人物の活躍なくしては、呉は滅んでいたと思います。
また、孫権は、于禁(うきん、魏の武将)を曹操との密約のもと殺さず釈放したり、荊州(けいしゅう、歴史的な州のひとつ)を一滴の血も流さずに奪い取るなど、智略にも優れていました。他にも、あえて謙(へりくだ)った態度をとることで息子が人質に取られることを回避したり、その才能は計り知れません。
この人材登用と智略のおかげで孫権の存命中、呉は強国魏や隣国蜀との緊張関係の中を見事に生き抜きます。
やっぱり後継者問題
では、なぜ孫権が曹操や劉備ほど人気が出ないのかと問われれば、やはり後継者問題を引き起こしてしまったからでしょう。もちろん、曹操や劉備に後継者問題が起きていないとは言えませんが(特に劉備)、孫権の場合は自ら後継問題の種を撒いてしまった点で2人とはおおきく事情が異なるのです。
孫権は、当初長子である孫登(そんとう)に後を継がせるつもりでしたが、孫登は若くして亡くなってしまいます。そこで孫権は次なる跡取りを孫和(そんわ)と決定し太子(次期皇帝)とするのですが、その一方で孫覇(そんは)という孫和の弟を気に入り、孫和と同じ扱いをしてしまったのです。
太子を決めたならば他の子に同等の扱いをするなどもってのほか。孫和派vs孫覇派のふたりの宮さまの対立で呉は分裂をおこし、その中で有能な武将や政治家が讒言(ざんげん、陥れるためのことば)により流刑などに処されてしまいます。この争いの中で、あの陸遜も孫権と対立しその最中で亡くなっています。
結局、孫権は10年におよぶこの後継者争いに嫌気がさし、孫亮(そんりょう)という末息子を溺愛したあげく、孫和を幽閉し太子を廃したうえで、孫覇には自殺を命じました。
世に言う二宮事件(にきゅうじけん)です。
原因はやはりアレ
後継者問題の発端も長期化の原因も同じところにあります。それは、孫権が人の話を聞かなくなったこと。「貞観政要」を読んだことのある人なら、これがどれほど危険な行為であるかはお分かりいただけると思います。陸遜をはじめ、あらゆる政治家が孫権の後継者選びに対する態度を戒めようと諫言(かんげん、忠告のこと)を与えています。しかし、孫権は一切聞く耳をもたなかったようで、それどころか讒言の類を信じてしまいます。
(「貞観政要」についての記事はこちら)
讒言の中でも特に聞いてはいけなかったのが、全公主(孫権の長女、歩夫人の娘)の言葉です。全公主は孫和の母である王夫人のことが嫌いだったために平素から王夫人の悪口を吹き込んでいたと書かれています。また、孫和が叔父の家に立ち寄ったのを、「太子は廟にこもらず、もっぱら妃の実家に行って謀議をこらしております」と孫権に言い、孫権が重い病気になったことについて「王夫人が嬉しそうにしている」などと告げ口したとも記されています。これらが原因で王夫人は心の憂いにより亡くなり、孫和は孫権から寵愛されなくなったのだとか。
人材登用に優れていたはずの彼は、聞きれるべき臣下の諫言を聞き入れず、信じてはいけない長女の讒言を鵜呑みにして、後継者争いに拍車をかけたのです。これだけ聞くと、孫権アホなんちゃうか?と思ってしまいます。
後継者問題が勃発したのが孫権60歳の時。耄碌(もうろく)したと考えることもできるわけで、その側面は否定できないと思います。
わかっちゃいるけど
ただ、ここで注意が必要なのは、孫権だって皇帝になるぐらいには優秀な男だってことです。諫言を聞き入れることがいかに大事かは十分わかっています。その証拠に、孫権56歳のとき(と思われる)、諫言を聞き入れずに失態を犯したことを詫びたうえで、諫言しづらい雰囲気であることを耳にしたとして「なにはばかるところなく諫言していただくことを諸君に期待し、私の誤りや過失を補っていただくことは、私の願いでもある。」「全ての事柄にわたり、改めるべきところについて優れた方策を上聞し、私の及ばぬ点を正してくれるように願っている。」と述べています。
太宗李世民ほどではなかったかもしれませんが、孫権だって諫言がなくてはならないこと、それを聞き入れなければならないことは百も承知です。そもそも、人材登用に優れ、有能な人物と共助の関係を築くことで国を守った孫権なのですから、それぐらいわかっていて当たり前と言えます。
そんな孫権ですら歳を重ねて頑固じじいになってしまったのか、徐々に諫言が耳に入らなくなります。二宮事件でも当然のようにあらゆる家臣が諫言していますが、一切聞き入れた様子がありません。
個人的には年齢に伴う判断力の低下の問題だけではなくて、孫権が誰よりも実績があることも原因の一つだったと思います。19歳で家督を継いで国を率い、この時すでに亡くなっている曹操や諸葛亮などの伝説的英雄と渡り歩いた孫権を力強く諫めることのできる人は少なかったようです。facebookのザッカーバーグ で例えるなら、「facebook作った実績があって、あのジョブズと競っていた人に忠告なんてできないよ!」ってな感じかもしれません。
引き際の難しさ
上述のように、孫権は56歳のときに自らの過ちを認めています。そして、実はそれ以前(51歳のとき)にも諫言を聞きれずに大失敗をおかしています。この度重なる失態を元に、家督を完全に譲っていればよかったのかもしれません(孫和は優秀な人物としてのエピソードが伝えられています)。けれど、いつまでも自分は「現役」だと思ってしまいますよね。
何か失態をおかしたり大局のために貢献したりしようとすると、行動を起こしてしまいがちですが、身を引くことが大事なこともあるのではないでしょうか。
いつまでも創業者の威光を輝かせたい企業や、会長職に退いてからも経営の実権を譲らない元社長が失態を演じるなど、今でもよく聞く話です。孫権と少し似ていると思います。
ザッカーバーグがどうなろうと知ったこっちゃないですが(笑)、どんな小さな組織であれ後継者問題は起きるものです。自身の身の回りにも注意を払いたいと思います。
*参考文献*
「三国志」陳寿、裴松之 注、小南一郎 訳(ちくま学芸文庫)