どうも、引きこもりコラムニストの最内翔です。
こちらでは朝のHRでの話題について、引きこもり視点で語っていくコラムです。
今日の話題は
・縁と無償提供が仕事を引き寄せる
・公式コラムの必要性と重要性
・皆の才能を片っ端から使いたい!
ざっくりとこんな感じでした。
ここからはHRを聞いた上での著者の感想になります。
距離感は大事
いやはや、これを書くのも久しぶりですね。
調べてみたら丁度1ヵ月ぶりの投稿になりますね。
実は「ベーシックインカム」について話題にあがっていた時に私が暴れちゃって、居づらさとその時の風潮が合わないのとで、暫く距離を取っていたんですよね。
で、久しぶりに戻ってきたらまた私にとって居心地の良さそうな空気感になってそうだな、と思ったので復帰した次第です。
良くも悪くも中田さんは常に変わり続けていますので、自分と合わないモードの時は距離を置いて様子を見るのも大事だなと感じました。
今回のテーマ
さてそう、久しぶりに聞いたらまた、面白そうな募集がかかっていますね。
公式コラムライターの募集です。
おそらくYesマンにはなれない私はたまに反対意見を書いたりしますのでまず選びづらいとは思いますが、一応応募だけはしてみようと思います。
基本的には比較的咽び泣き勢視点、社会不適合者視点の切り口にはなるでしょうが、まぁそういう色物枠でワンチャンあればな、と。応募はタダですし。
ともかく、その応募時の目安の意味も兼ねて、久しぶりにコラムを書いている次第です。
今日のテーマは、「先に与える事の難しさ」です。
縁の重要さ
今日は中田さんの実体験から始まり、
「先に与えることで、相手からもお返しが貰え、それが縁となって今後の自分を助けてくれる」
という考えを仰ってましたね。
個人的に好きな授業の「夢を叶えるゾウ」でも、「“人生は人喜ばせ合戦”であり、だからこそ人がやりたがらない事を率先してやったり寄付をすることが大事だ」という話があり、それにも通じるなと考えながら聞いていました。
これはまさしくその通りだと私も思いますね。
この場合の縁の力というのは、ともすればコネ採用だなんて表現されて批判されることもあるでしょう。
勿論実力を鑑みずコネだけで採用をすれば不満も出るでしょう。
ですが実力を持っている人の中で、或いは将来性を見込んで選ぶという時には、やっぱり知っている人に任せたい。知っている人の力になりたい。そういう判断基準は大きな要因に間違いなくなります。
縁というのは言い換えればコミュニケーションの取り易さとも言えますから、”円滑な連携のための下地”とかなんとか言い換えればなんか説得力も増しますよね。
情けは人の為ならず
じゃあこの縁を繋ぐための取っ掛かり、最初の知って貰うためのハードルの越え方で一番有効なのはと言われると、やはり「無償で何かを提供する」だと思います。
返報性の原理が働きますし、仕事とかだと何が出来るのかとかが一番良く分かる。
0を1に変えるより、1を2に変える方がスムーズですからね。
”情けは人の為ならず”です。
分かっていても余裕が無い
ただ、それらが分かっていて尚、先に無償で何かを提供するのは難しいことだな、とも思ってしまいますよね……
預金残高4桁の時には、コンビニの募金箱にお釣りの7円を投じることすら惜しい。
求職中の収入の無い中で、無償や格安の仕事をするのは厳しい。
仕事で疲れてヘトヘトになっている中、特別親しくない人と話をするのもしんどい。
リソースがあるからこそ自分や他人に投資が出来て、投資出来るから次に繋がる。
良い悪いではなく、これが資本主義社会の原理原則なのでしょう。
理解していても、何を於いても自分が生活することが最優先で、余ったリソースを疲れ果てた自分を癒すために使ってしまう。
そうやって疲れ果てていると、ただ見ているだけでエネルギーを吸い取られる人になってしまい、皆から距離を取られる。或いはそんな自分を恥じて皆から距離を取る。
邪道とはいえ一つの手段
勿論私程度には、この問題を解決できる画期的な答えなんて思いつきません。
だからこそ今私は働く余裕を無くし、生活保護の受給で生活の保障をして貰う事でなんとか善く在ろうと努力するリソースを確保するという乱暴な手段を選ぶことになったのですから。
ただ自分はこの手段を選んだことを恥じてはいますが、一方で正しいと、指さされる事ではないとも感じています。
人として生きる上で、資金や技術、人脈だって育て成長するためには誰かにリソースを注いでもらわなければなりません。
”学生の間は親に、社会に出たら会社に育てて貰う”
そんな前時代的な常識は、”新卒”という属性を失ってしまえば通用しないのが今の日本で。
成長するためのリソースを自分で切り詰めやりくり出来なければ、一生搾り取られる側から抜け出せないのが今の日本で。
もうその現状は数日も飯を食えなければ生きていけなくなる私たちには良い悪いを論じる段階になく、数年では変わらないこの現状を認めて対応していくしかない。
勿論自力でやりくりしてリソースを確保し這い上がった人や、なんとか自力でやろうと今も悪戦苦闘している人と見比べると、他人の力を借りざるを得ない自分を情けなくは感じます。
ですが出来なかったものは出来なかったのです。無い袖は振れないのと同様、やりくりは単なる気合でどうにかなるものでは無いのです。
そこを素直に認めて国の制度を選んだこと自体は、何ら後ろ指される事では無いと考えています。
少なくとも成長し投資し、誰かに何も与える余力もなくただ死なない為に生きる人生は死んでも嫌だし、それを強要することは道理に合わないはずだ。
”夢を叶えるゾウ”でも語られていたように、何かを始めるためには何かを止めてリソースを確保しなければならないです。
もしgiverになりたくてもどうしてもそんな余裕が無い、という人は、国の制度などを利用するのも、悪くはないんじゃないでしょうか?
まぁ問題はその制度を利用するための申請にも、結構なリソースを取られる事ですけどね。
いつか、「生きてて楽しい!」と笑顔で言えるように。
またいずれ投稿したいと思いますので、良かったら是非またお越しください!