中田敦彦と筒井康隆 その②

執筆者 | 22/06/22 (水) | コラム

中田敦彦がYouTube大学によって、別次元の成功者となり始めた頃に、フジテレビの『ボクらの時代』に出演した。

この時期には珍しいTV出演である。

神田伯山、瀧川鯉斗、中田敦彦による鼎談だが、瀧川鯉斗はあまりどうでも良く、藝能大好きしーちゃか(私のことね)にとっては、中田敦彦と神田伯山との邂逅は「藝能史的事件」になりうる「一大事」だった筈なのである。

それは、ほとんどその存在を忘れられていた伝統藝能である「講談」を、現代に通じうるエンターテインメントとして「復活」させた「天才」神田伯山と、おそらくTVが時代遅れになり始めたという雰囲気が漂う中に現れた、「藝能人YouTuber」における圧倒的な「成功例」中田敦彦との、接近遭遇だったのである。

「古典の復活」と「新時代の幕開け」がなぜここに来て「邂逅」するのだろうか?

しーちゃかが期待したのは、もっぱら「たった一人で長尺で語るエンターテインメント」における「トップ・オブ・語り部」同士の激論だったのである。

同世代とか毒舌キャラなど、比較的「どうでも良い」のである。

しかし、「トップ・オブ・語り部」という側面はまったく希薄で、MC的にふるまった神田伯山の悪癖ともいえる、程度の低りいじりのみに終始してしまった。

まったく残念であった。

中田敦彦は度々、YouTube大学での自身のパフォーマンスを「講談」に近いモノではなかろうか? 的な内容を発言している。しかし、おそらく、「講談」に対して直に似ているというよりも、「講談」も「YouTube大学」も同じルーツの元に発展、進化したエンターテインメントなのではなかろうか? と思う。

ルーツとは、例えば、稗田阿礼であったり、ホメーロスであったりする。

稗田阿礼は「古事記」の内容を記憶して語る者であり、ホメーロスのギリシア古典文藝はメロディーにのせて唄うことを前提にしているのだ。

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したときに、「なんで歌謡曲が文学?」と思った人も多かろうが、そもそも小説よりも歌の方が文藝としては伝統があるのだ。

「語り部」とはエンターテインメントの根源的な、核に位置する、ナニカ、なのである。

そして、様々な形態、形容に枝分かれしていったそれぞれのエンターテインメント媒体に、時として圧倒的な「語り部」が現れるのである。

と、ここまでが、中田敦彦と筒井康隆とのアナロジーを語る為の前提である。

筒井康隆は子供の頃から文学と映画に興味があり、イケメンだったので俳優を志して日活のニューフェイスに応募するが落選し、大学卒業後サラリーマンをしながらSF同人誌を立ち上げ作品を発表しているうちに、江戸川乱歩に認められメジャーデビューに至る。

筒井康隆は饒舌体とも呼ばれる文体を屈指し、独特なエンターテインメント文学を構築した。饒舌体の先輩には例えば、太宰治なんかがいる。「 駆け込み訴え」とかを読んでくれたまえ。

しかし単なる饒舌体ではなく脱線して発展するという特性を併せ持つ。

これは、筒井康隆がジャズに熱狂していることと関係がある。

因みに、あのタモリを見出して藝能界に招き入れた人物のひとりが筒井康隆なのである。

筒井康隆はジャズピアニストの山下洋輔らとホテルの部屋でどんちゃん騒ぎをしていて、その時に仲間のひとりが廊下に出てから中に入ってひとネタかまそうと試みた時に、たまたまその時に廊下にいたタモリが、「なんか面白そうなことをしているなこの人は」と興味を抱き、一緒になって勝手に部屋に入っていき、どんちゃん騒ぎに参加したのである。

これが「タモリ誕生」の初日である。

閑話休題。

余談はさておき、そんなわけで、饒舌に、のべつ幕無しに語る文体で、なおかつ脱線、発展するような特徴がある筒井康隆文学の、代表作といえば『文学部唯野教授』である。

筒井康隆はノースロップ・フライやテリー・イーグルトンなどの専門的な文学理論のその発展の歴史を読んで興味を持ち、「文学理論の歴史と発展をエンターテインメントに出来るのではないか?」と試み、「文学部」の「唯野教授」の「講義」というスタイルで、作品化したのである。

おそらく、『文学部唯野教授』を読んで頂ければ、その「講義」のシーンに関しては、中田敦彦YouTube大学に似ている、というこの感覚を共有してもらえるとは思う。そもそものコンセプトが類似しているとも言える。

ところで、唐突だが、中田敦彦のパフォーマンスはどうして他を圧倒するのか?

おそらく、中田敦彦にあって、その他の教育系動画、雑学系動画に欠けている要素は、ライブ感である。

あの、即興演奏に近いライブ感溢れる中田敦彦のパフォーマンスが、予定調和的な退屈を排除しているのだ。

時折、言葉の言い間違いや、例えや比喩に対して、「この例えも変だな」的に自らツッコミを入れたり、そこを掘ったりもする「アドリブ感」が、ただ単に情報を受け取るだけの感覚を超えた、時間と空間を中田敦彦と共有しているかのような興奮を呼び起こすのである。

そして、この「ライブ感」が筒井康隆にも通底している。

中田敦彦と筒井康隆はこうしたパフォーマンス上の共通点とは別に、それぞれに弟がいて父親に対してのスタンス等もどことなく似た部分がある。

と、まあ、どうしてそんなに中田敦彦と筒井康隆は、似てる、似てると言いたがるのかというと、あっちゃんのYouTube大学もしくはトークチャンネルに大物ゲストとして筒井康隆に登場してもらいたいからである。

筒井康隆は80歳オーバーの老人だから時間がないのである。

筒井康隆は、色々と動画にも出てるし、Webで日記も作品も読めるからちょっとあっちゃんも筒井康隆に興味を持って、なんとかして欲しいのである。

中田敦彦と筒井康隆の対談が実現したら、神田伯山では起きなかった「歴史的事件」になりうるのだから。

 

ね、だといいね。

おしまい。

執筆者 | 22/06/22 (水) | コラム


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