強くて優しいチューダ婆に私はなる

執筆者 | 23/02/24 (金) | コラム

はじめに
このコラムは私のずっと思い出したくなかった青春時代を開示し、お焚き上げをしようと書きました。個人的な思いばかりですが、伊藤はこんな青春を過ごしたんだと思って頂ければ嬉しいです。

本当に速攻だった。
ゼノの脚本にチューダ婆が登場した時、瞬時にやりたいと思った。
普段少しは考える方だったが全く考えなかった。
お芝居はもともと好きだけど、ノエルやオリビアはキャラクター的に無理。
なりきってオーラを纏ったとしても人生経験が出ちゃいそうだ。
でもチューダ婆ならやれる。やりたい!
と久しぶりに熱い思いがこみ上げた。

そこで自分なりのチューダ婆を作り上げるため、
チューダ婆の生い立ちを考えてみた。

裕福な家に生まれ、何不自由なく育ったが
戦争により両親を亡くし孤児となる。
反体制として活動していくがそんな中で恋をし、
子供ができささやかな幸せをつかんだかに思えた。
がその愛する二人も戦争で失うことになる。
絶望したチューダ婆は自ら命を絶とうとするが、
すがってくる幼子に止められる。
以来貧民窟の孤児たちの大いなる母として、
そして婆として生きてきた。
そんな物語を考えて、
チューダ婆とは深い悲しみを経験し、
挫折し、愛を知り、強い意志を持った愛ある存在として
悲しみを持つ人々の上に立ってる存在であると想定した。
そこで、私はふと思った。
私はどんな存在としてPGにいるんだろう?

みんなは言ってくれる

あっちゃんをずっと見守ってきた人
あっちゃんのガチファン
プログレス創立からいるレジェンド
確かにそれも事実。
でも私は青春時代に体験した黒歴史を
自分自身にさえ思いださないように封印していた情けない過去を持っている。
でも最近のHRの内容が自分らしく、自分を開示し、やりたいことを明らかにしていこうとあっちゃんは言っているし、PG放送室のみんなはささやかな夢から壮大な夢まで公言し、応援してくれる人々と共に輝いている。

私は誰かの応援は出来ても自分の応援は出来ない。
しゃにむにyoutubeやったり、tiktokやってるけど、全部あっちゃんのトレースだ。
あっちゃんの夢が私の夢って公言してきたけど、
中学生まで私は夢を考える状態ではなかった。

そんな自分が封印してきた過去をさらけ出すのはどうかとも思うが、私という人間がどのように作られてきたかPGのみなさんだけにはお話してみようと思う。

私は一人っ子としてバンドマンの父、
専業主婦の母の元に1956年に生まれた。
母も父も私を溺愛した。
持ち物などは誰も持っていないような外国製を持たせてくれた。
クレパスさえ珍しい時代にドイツ製の48色のクレバスを持ち、
リコーダーはドイツ製のプロ仕様だった。
先生にもかわいがられえこひいきされていたし、
華々しい役をどんどんやらせてくれた。
その結果当時はまだ社会問題にもなっていなかった
いじめに遭うことになった。
8歳ぐらいからはじまったいじめは各種いじめのオンパレードだった。
上履きがなくなる、服が汚されるのは前菜のようなもので
当時は汚いとか、臭いと言った直接的な罵詈雑言はなく、
表面上は仲間扱いだ。
手つなぎ鬼が流行ったとき、毎日ロングな昼休みに
いじめっ子がみんなを集め鬼決めのじゃんけんが始まる。
そしてそれは私が鬼になるまでじゃんけんは続く。
たまたま私が勝ってしまうとクレームがつき、
やり直しさせられる。
そう、私は毎日昼休みに鬼ごっこの鬼をさせられた。
当時私はクラスでも1,2を争う足の遅い子だった。
当然ほかの人を捕まえることが出来ず、
ずっと校庭を走り回らせられることになる。
せっかく誘ってくれてるのだから断ることは許されない。
これは後日談だが、あまりに毎日走られられるものだから、
次第に弱かった私に体力が付き、
徐々に人を捕まえられるようになっていった。
1年たたずに私はマラソンの代表選手に選抜されていた。
これはちょっとだけいじめてくれてありがとうポイントだ。

水泳部にいじめっこから誘われ入った。
私はその時10mも泳げなかったにもかかわらずだ。
断れなかったし、
声をかけてくれることがうれしくなっている情けない私だった。
無理して必死でついて行った。
2年たったら、東京都の平泳ぎの代表選手になっていた。
いじめに遭うと体力がつくらしい。
そのかわり、精神的苦痛は毎日何かしらあった。
あるときみんなで同じ水着を買おうと提案された。
みんなの家庭はサラリーマンや自営業。
我が家は貧乏なバンドマン。
ブランド物の競泳用水着はとても買えず、一人だけスクール水着だった。
どうしてもみんなと同じ水着が欲しかった私は
知り合いのお店でバイトしてなんとかみんなと同じ水着を買った。
みんなと同じ水着を着て行ったときうれしかった。
でもそれはたった一日だけだった。
次の日ほかの部員は全員最新型の競泳用水着を着ていた。

他にも思い出すのも嫌なほどいろいろな嫌がらせをされた。
小3ぐらいから中3までそれは続き、
毎日が辛くてしょうがなかった。
私は逃げることも出来ず、ひたすらいじめられ続けた。
それは強かったからではない。
偏愛する両親にいじめられている状況を知られたくなかっただけだった。
今おもうと情けない。なんで戦わなかったんだろうと思う。
いじめに遭い、自殺する子の気持ちが私はわかる。
何度も死のうと思った。
どんな死に方なら楽かとも考えた。
死んでお化けになっていじめた子たちを呪い殺したいと思ったからだ。
こんな情けない理由で死にたかった。
でも溺愛する両親がどんなに悲しむか、
遺書でも残そうものなら両親がその子たちに何をするかが怖く、
死ぬことは出来なかった。
親の愛はおろかなほど強く信じられるものだった。
かといって親や先生にいじめられてると訴えるのは絶対ダメだと思ってた。
子供の世界に親や教師はいれてはならないと本能が告げていた。
より一層ひどい目に合うだろうし、
やはり親を悲しませるわけにはいかないと思っていた。
なので家に帰ってくると明るいいつもの自分に戻っていた。
このころ、演技することを覚えたように思う。
幸い当時私はピアノの英才教育を受けており、
家にいるときは食事以外ピアノのエチュードをさせられていた。
ほとんどほかの子と学校以外で遊んだことはなかった。

そして高校受験。
私はクラスメートやいじめっ子が一人もいかない私立を選んだ。私はやっといじめっ子から逃げることが出来たのだ。
しかし高校3年間はいじめられていた時のトラウマで誰かが集まって話をしていれば、私を陥れるために何か話しているのではないか?
私の知らないところでみんなが仲良くして私だけハブられてるんじゃないかと懐疑心がでてみんなと自ら仲良くなろうなんて全くできなかった。
そんな高一の時今の主人と出会った。
こうして振り返ると主人とはもう49年の付き合いになる。
彼の存在が私に親友がいないことを忘れさせてくれた。
私はその時点で友人もいらないし高1までの記憶をすべて封印し、
新たな人生を送ることに決めたのだ。
やっと私はいじめから抜け出した。
そして優しい夫のもと、子育てに励み、仕事に夢中になった。
いじめられ子だったので、どんなことでも我慢できる。
強い私が出来上がっていた。
いじめがどんなにかむごいか知っている私は優しくもなれた。
そしてあっちゃんに出会い夢中になった。
NKT,ユナイテッド、プログレスとあっちゃんが作り上げるものにはなんでも入った。
募集があればなんでも応募した。
強くて優しい人になる!あっちゃんの言葉に何度もうなずいた。
そしてプログレスはいよいよ学校という背景が出来、
大人の学校!となっていった。
私はいじめられっ子だった記憶がよみがえり、
少し不安になった。
友人関係が出来たらまたいろんな不安にとりつかれるのではないか?
いやいや大丈夫!あっちゃんの事だけ私は見てるんだから、
友達も別にいらない!
とさえ思ってた。でも最近今ある私を形成しているのは自分なりにいじめと戦い、とりあえず、封じ込められるだけの幸せを手にした私ではないのか?
今こそあっちゃんの作ったこの大人の学園で学校生活を送るべきなのではないか?
と思えるようになってきた。
今はもうハブられたり、いじわるされることを恐れる弱い私ではない。
チューダ婆のように(勝手な妄想だが)悲しみも、愛も知っている。
この永遠に終わらない学園をどんどん増える新しい友人と共に楽しみたいと心から思う。

こんな個人的な長文読んでくれた方に感謝

執筆者 | 23/02/24 (金) | コラム


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