僕の親は耳が聞こえない/若林翼

執筆者 | 21/04/30 (金) | コラム

「うああ」

これは、父親が僕のことを呼ぶ時の声だ。

表題のとおり、僕の両親は耳が聞こえない聴覚障がい者(以下:ろう者)である。
父は生まれつき、母は幼い頃の高熱が原因で聴力を失った。

ろう者は耳が聞こえないため、自らの声すらも聞くことができない。
だから声を出しても不明瞭な発音になってしまうのである。(発声が上手な人もいる)

見知らぬ人からすれば、「変な声」と思うかもしれない。
ただ僕にとっては、この「変な声」がとても愛おしく、落ち着くのだ。

ちなみに耳の聞こえない親を持つ僕は通称CODA(コーダ)と呼ばれている。(Children Of Deaf Adultsの略)

僕は両親のことが大好きで、とても尊敬している。
でもそんなことを素直に感じるのに色んなことがあった、今思えば楽しい時間だったと思う

これは僕と両親の関わりの中で僕が感じた素直な気持ち。

ここから先は超自己開示系エッセイとなります。家族関係に関する出来事を書いています。
出来る限り読みやすく柔らかい文章にするよう努力はしていますが、一部読みにくい部分があるかもしれません。
そのような文章に不安・不快感・ストレスなどを感じる方は、お読みにならないことをお勧めします。

手話との出会い

よくこんなことを聞かれる

「若林くんはいつから手話が話せるようになったの?」

多分、人生で聞かれた質問TOP3の中には入ると思う。(”手話”というのはそれぐらい珍しいことで、触れ合う機会・学ぶ機会が少ないものなんだろう。)

PROGRESSに入ってからも手話に関していくつか発信してきたので「いつから手話~」はよく聞かれた。

僕がする答えは「物心ついたときから」である。冗談じゃなく。

みなさんは日本語をいつから話せるようになった、とか覚えているだろうか?
多分、「物心ついたときには」日本語を話していたと思う。それと同じ感覚。

父も母も、幼い僕と手話でコミュニケーションをとってくれた。
僕には4つ上の姉がいるので、姉との子育ての経験や失敗を踏まえてのことだろう。

幼少の頃は何の疑いもなく、これが当たり前なんだと思って手話やろう者である両親とのつながりを満喫していた。
他の家庭でも手話を使って会話してるもんだと思っていたぐらいだ。

手話通訳という荒行

幼い時、気づけば手話通訳なんかもやってた。
これがまぁ大変。

考えてもみれば大人と大人の会話を取り持つのが10歳にも満たない少年である。
飛び交う単語も内容もスピードも何もかもが意味不明でつまらない。

しかも大人たちは「この子は通訳をするぐらいだから頭の良い子なのだろう」と勘違いして、全然気を使ってくれないから、余計に頭がパンクしていた。(姉はあまりの辛さに通訳中に涙を流した。)

父や母からの「この車のこのパーツはどういう規格でどう使うものなの?って聞いてくれる?」という依頼に「免許もない僕にそんなこと理解できるか!!!」と心の中で叫びながら、何とか無い頭を捻ってディーラーさんに質問していた。

もっと辛かったのは風邪の時の病院である、こっちは39度も熱が出てるのにお医者さんのカタカナだらけの意味のわからん薬の話をなぜか説明しなきゃいけないし、お母さんも「息子の体に万一のことがあってはいけないから」と薬の副作用の話とかを聞きたがる。

「万一のことは今起こってるよちくしょう!」と風邪と通訳のダブルパンチで倒れそうになったことも今となっては良い思い出だ。

大人の気遣い

そんなことを経ながらも、年月はたって小学校6年生になっていた。

学年主任の先生から、「卒業式の際に6年生全員で手話を使って挨拶がしたいから手話のチェックと指導をお願いしたい」という依頼が舞い込んできた。

子どもながらに「うわ~、気使われてるなぁ」と申し訳なく思った。もちろん良い社会経験として手話を取り入れるという意味もあるだろうが、半分以上は僕の家族への心遣いだろうというのは容易に理解できた。

僕の家庭が要因で100人近くの同級生を巻き込むということにあまり気は乗らなかったのを覚えている。

当然のように享受している境遇に対しての気遣いというのは意外と心にくるものがあって、僕の場合は「ろう者の親を持つ」という事実を特に何の疑問や不満も抱かず生活していたのに「大変だね」「通訳してえらいね」「君が頑張るんだよ」なんて言われたら逆効果だ。

「僕の親は何か問題があるのか?」「僕は頑張らなきゃいけないのか?」

そんな風な不安が頭をよぎって仕方ない、誰にも打ち明けられない辛さがあったし、当時12~3歳の頃はこの不安をなんて言葉にしていいのかがわからなかったから余計に辛かったと今では思う。

そういった不安を持ちながら、多感な思春期に入って両親とどう向き合えば良いのかもわからなくなった。

CODAの反抗期

反抗期はあったのか、と聞かれると「う~ん」と閉口してしまう。

なぜなら、親とはずっと手話通訳やら何やらで関わりを持ち続けていたのであからさまに会話をしなくなったとか、顔を合わせなくなったとかはなかった。

心の中のモヤモヤは残りつつも、何とか家族をやってたという感じ。

CODAと親の関係はなかなか特殊なもので、「親は子を守り、子は親を守る」という関係性が成り立ってしまう。「親と子」という上下ではなく、同じ立場に立って意見し合いながらメリットを受け合う関係性に近い。

だからこそ、思春期でも親とは関わりを持ち続けたし、反抗期らしい行動もなかった。

唯一記憶している大げんかは母に対してあまりにも夕飯にシャケの塩焼きばかり出してくるので「またかよ!!」と怒ったことだと思う。今思えば本当に申し訳ない。

心の中では「なんで僕の親は耳が聞こえないんだろう」とずっと悩んでた。

「みんなの親みたいに、耳が聞こえているなら授業参観にも来れた。他の親子との交流も持てたのに」とずっと考えてた中学の頃だった。

本当の両親の姿

幼い頃からキリスト教会に通っているのだが、そこが少し特殊でろう者の牧師先生がろう者のために開いた教会だった。
そこにはろう者が多く集まっていて、僕と同じような世代の子どもたちもたくさん集まっていたしいわゆるCODAたちもいた。

僕がさっきみたいなことをずっとモヤモヤしていた時期に、教会にいる中高生で親のことについて雑談していた時があった。

各々が「通訳が大変だ」とか、「親のこんなところが面白かった」とか話している中、そろそろお開きにしようかぐらいの時に一番年上の方がこう言った。

「僕たちは、ろう者の親を持てて本当に幸せだ。感謝しかない。だって子育てってただでさえ大変なのに、耳が聞こえないんだよ。そんなことも感じさせないぐらいパワフルだ」

衝撃だった。そんなこと考えたこともなかった。

気づいた。僕は僕自身のことを見て欲しいのに、肝心の僕が親のことを知ろうとも、向き合おうともしてなかったのだ。

父も母も、これでもかというほど僕に向き合ってきていた。耳が聞こえないというハンデも抱えながらできることを全てやってきていたんだ。

そこに見えたのはいままで通訳の時に、僕のことを見つめるどこか弱々しい両親じゃなく、とても強くて優しい両親の姿だった。

今与えられているこの境遇を何も不安に思うことはなくなった。

モヤモヤが晴れた気がした。

僕の両親は耳が聞こえない

それからは手話をもっとより深く知ろうと親との会話を増やしたり、自分から手話通訳してみたりしていた。

喧嘩や不満が出ることはあれど、さしたる問題ではなかった。

高校生になってからはろう者は手話に関して自分から外に発信することも増えた。
僕の経験を通して、僕と同じような悩みを持つCODAをなんとか助けれたら、「手話」という言語を何とか多くの人に伝えれたらといろいろと経験させていただいた。

どれも楽しい経験だったし、僕の糧になったと思う。

高校の卒業式、最後のホームルームでクラスメイト一人ひとりが挨拶をすることになった。
その日は両親と外部の手話通訳士の方が来ていた。僕の挨拶の番になって、手話通訳士の方に「今は、通訳しなくて大丈夫です」と一声かけて前に出た。

「今日は両親が来ているので手話で挨拶をします」と手話を使って挨拶をした。
あの時の父と母の気恥ずかしいような顔は今でも忘れられない。
心がキュッと締め付けられるような嬉しさがあったのを覚えている。

PROGRESS

時間は飛んでPROGRESSに入ってからも手話に関しての発信をしてみた。
中田さんを始め、たくさんのメンバーの方に反応をいただいた。
初めての動画にはとても嬉しいコメントばかりで、感謝してもしきれない。

手前味噌な話ではあるが、中田さんが朝の会ラストで出すハンドサインは「I Love You」というアメリカ発祥の手話である。(もはやLife is a Festival.という意味になってるレベル)

過去にPROGRESSであげた動画でこのハンドサインを紹介した際に、中田さんによって「PROGRESSで写真を撮るときはこれにしよう!」と嬉しいご提案をいただいた。

今ではたくさんのメンバーがこのハンドサインを使って撮った写真をTwitterに上げてくれる。
意味を知っているかどうかはさして問題ではない。
”手話”がメンバーの生活の一部に入り込んでいる、という事実が僕はとても嬉しいのだ。

父と母から貰った大切な宝物の「手話」が少しずつ広がっているということがすごく嬉しくてたまらないのだ。

おわりに

思えば、父も母も「耳が聞こえない」ということを一切恥じていなかった。
そんな力強い姿勢が僕をここまで育てたんだと思う。

見方によってはデメリットに感じるような境遇を、メリットに変えて、創り上げてきたものを通して僕はたくさんのことを学ぶことができた。

そして僕自身も、父と母が作り上げた作品として恥じない人間になれたらと思う。

今は長崎の実家と神奈川で遠くに住んでいるが、時折連絡や仕送りを送ってくれる。
連絡のほとんどは猫の画像とか動画だが、年をとっても好きなように楽しく暮らしているようで、僕は嬉しい。

親しい友人から「今年の母の日はどうするの?参考にしたくて」とメッセージがきた。

いつも花やお菓子を送っていたから、今年は「言葉」を贈ろう。
感謝の言葉を。

執筆者 | 21/04/30 (金) | コラム


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