コアバリュー更新についての所見

執筆者 | 21/05/08 (土) | コラム

*あくまで筆者は一メンバーとしてこのように解釈して受け止めているという内容でPG公式見解ではありません。

序:コアバリュー概論
5月7日のHRでコアバリュー3.0が発表された。
・抜け道より正攻法を
・批判より提案を
・心配より応援を
いつでも強さと優しさを

この方針では「強さと優しさ」の具体例に迫ったと感じた。
これはPROGRESSは5000名を超えて、様々な個性による社会実験が成り立った結果かもしれない。

コアバリューとは何かということに触れておくべきだろう。
例えば他のコミュニティーに置き換えれば 社是や家訓といった標語(モットー)があり、そのPROGRESS版である。

たかが標語されど標語である。
こうしたこと掲げることは少なからず気風、オンラインサロンの集団としての個性に影響を及ぼす。

余談だが、大好きな海外ドラマ「ゲームオブスローンズ」では大陸の派遣をめぐって諸侯が陰謀をめぐらすのだが、家ごとに標語があり、物語に深みを与えるとともに、諸侯各家の個性を表していた。北の雄スターク家の標語は「冬、来たる」。

筆者はPROGRESSには5月10日に入会し、5月11日の朝の会でもコアバリュー(当時は基本三方針)の話を聞くことができたのだが。その日のうちに自己紹介もそこそこに、
このコアバリューについての考察を20分もしゃべるムービーをIntroductionに挙げてしまったものだ。
映像や編集も拙く、今では黒歴史動画である。決して掘らないで欲しい。

当時は
・強くて優しい人になる
・1日3コメ3イイネ
・親友をつくろう

これが基本三方針(コアバリュー1.0)であった。
下記は筆者の解釈であるが、強くて優しい人になる これが1番目であり体現目標である。1日3コメ3イイネはその為の手段であり、そうしているうちに親しい友人ができる。
あるいは、友人を親しく思えば、自然と交流を図る事ができ、強くて優しい振る舞いを実現することになる。
昇順にも降順にもエネルギーが流れる美しいコアバリューと感銘したものだ。

コアバリュー2.0に変更されたのは8月の11日か12日だった。
丁度、この日はお盆の休暇で福島県檜枝岐村の駒ヶ岳に登山に出掛けていた。

その時に発表されたコアバリューが多くの皆さんに馴染の深い

・すべての人に強さと優しさを
・いるだけで楽しいコミュニティーへ
・PROGRESS(at your own pace)

である。最初のPROGRESS三原則よりも優しい方向に舵をきった内容である。
これは活性化したTV配信等により、タレント的なメンバーに日が当たる一方、繊細さんといった特性の人たちを置いていかない。
そうした意思が示された内容と受け止めることができた。

概論はこれくらいにして、続いてコアバリュー3.0の各論を深堀りしたい。

1.抜け道より正攻法を
1-1 抜け道とは何か

抜け道というものは、いつだって斬新である。そこに魅力もある。
しかし、抜け道は控えるべしというものが今回のコアバリューである。

なぜ、控えるべきなのか。
逆に一般的に抜け道がよしとされる場面を考えてみよう。

授業の題材にもあった孫子の言葉に
「兵とは詭道なり」という言葉がある。
また「正をもって合し、奇をもって勝つ」という言葉がある。

戦いの局面で勝つために奇策を用いる。
人の思いもよらない事をして、つまり抜け道的な作戦を取って出し抜くのは戦の世の常だ。
それができるのは英雄的であり、トリックスターである。

こうして考えてみると、何故、どういう局面において
抜け道作戦を控えた方がいいのか浮き彫りとなる。

それはPROGRESSにおける人とのコミュニケーションの場面。
TV配信やコメント、コラム、Twitter等にでの人への態度である。
これは戦いや競争の局面なのかといえば、そうではないだろう。

抜け道作戦というものは、その本質は平和的はないということだ。

1-2 いじり芸のユーモア論
これはユーモア論にも関連づくと思う。
いじり・ディスりはユーモアになることはできる。

何故いじりやディスりがユーモアになるのか。
その構造を簡単に説明すれば
口では悪口をいいながら、態度や空気感で表現しているのは
相手への好感や親近感だからである。
この落差、空気感や緊張と緩和のギャップが笑いとなる。

いじり芸は、好感や親近感の表現が伝わっていないと
ただの悪口に見えてしまう。
すべらないいじり芸は場の雰囲気、風向き、
角度調整(言葉のエッジをどれくらい効かせるか)
それらをセンスで狙って放つ名人芸に類する。

エッジをかなり効かせたいじりになると
見る人を選ぶという側面もあり
通じるのは関係性の中のみとなる。

ビギナーメンバーなどを置き去りにしたり、
PG内の一部内輪のみの話に終始していないか、
このあたりはユーモアセンスの磨きどころ一つと思う。

例えば、あっちゃんはしばしば自身の愚かさも笑いのネタにする。
いじり芸の自分バージョンであり、自分大好きと公言してはばからない文脈があるからなおさら面白い。

自分自身の優秀さに自他ともに認める部分があるから落差で笑いが成立する。
これが普段から自身なさげで、いつも私なんて~と言っていると笑いよりも心配になってしまう。

笑いを生み出す一言はトリガーにすぎず、
普段の振る舞いや人となりが笑いのエネルギー源になっていることが分かる。

1-3 企画等における抜け道
こちらは定義するのがより難しいと思える。
というのも抜け道作戦は常に斬新であり、
企画等においては斬新さというものは価値の一つだからだ。
だが言葉にまとめる事を試みたい。

たとえば、現状のTV配信において
必然性があって長時間になったとかではなく、
中身はおいておいて長時間配信するのを目的でやってみる。

これはルール上怒られるかな、どうかな?
それを試しにやってみる。
こういうものは結果抜け道作戦ということになるだろう。
いちいちやって良いですかと確認を取る事も良いと思えない。

その理由は説明する為に、こう言い換えてみよう。
そういったものは「プログレスいじりを目的もしくは手段に採用した企画」ということになる。

こんなこと良いんですか、そういった声があっちゃんの耳にも届きそして多少でも悩ませることになることは想像できる。
この想像力を欠いては優しいとは言えないだろう。

宗教用語であるが「汝、神を試すなかれ」である。
皆が尊重するものをいじり、試すことはスマートであるかどうか。

斬新であることはいいことだ。
けれどもルールを試しにいくことはスマートではない。

正攻法の中で斬新さやクオリティーを希求してゆく。
強さと優しさへのPROGRESSにおいて実に本質的なコアバリューと思えた。

2.批判より提案を
2-1 批判の定義
批判という言葉は、少なくとも僕が知っている範囲のあっちゃんの言葉の中では
あまり良い意味で使われない事が多いように思える。
どちらかと言えば「非難」よりのニュアンスである。

一般的にも「批判」という言葉はそういうニュアンスで使われる事も多いのでこれを批判するつもりはないが、批判という言葉は哲学・論理学の中でも重要なプロセスであり検証等を行って判断するという批評や評論と同じ程度のニュートラルさで、提案をも内包しうる言葉であるという所は前提として言い置きたい。

気になる人はドイツの哲学者カントの三大批判とよばれる
「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」でも読んでみる事をお勧めする。
なお、難解で有名であり、僕は御免被りたい。

2-2 批判と提案の例
例えば「じゃがいもはクソ」と言い放つ。
これはただの非難であり、悪口である。
「そう思うならそうなんだろ、お前の中ではな・・・」等のやりとりを経て
ディスコミュニケーションが成立して終わる。

同様の体で「〇〇の話を聞いてもやもやする」
一応これも単なる非難の類ではある。
ただ、こうした事を吐き出しをしてはならないという意図ではないと思う。
消化力には経験や環境に応じて個体差があるのは自然な事だ。

ここの部分がとか、自身のこういう経験に照らして考えれば、などの根拠を示せるとより強いロジックとなり知的な強さが伺える。

別の例をあげよう。

「じゃがいもにはこういう毒がある、なので摂取量を減らすべき」と言う。
このように理由をつけることで批判の体裁となる。
「じゃがいもにはこういうリスクがある、だからナッツを食え」これは提案だろうか。

実は違う。
ジャガイモについては批判しただけであって農家に優しくない。
この程度の知見は個人の意見の範囲ならばまだよいが、
政策までこの水準であると暴政となった事例は歴史上枚挙にいとまがない。

「ジャガイモにはこういうリスクがあるから、
 こういう育て方、こういう育種、こういう調理の仕方してリスクを低減するといい」
ここまでできて初めて提案である。
ここまで言えれば、ジャガイモについて困ったことかあったら、聞いてみようかと思えるほどの「頼りがい」である。
これが政策であったとしても公益にかなっていると思えそうだ。

2-3 感情の声と知性の声
以前にあっちゃんが言っていた「非難してくる人は傷ついている」
これは全く正鵠を射ており、この知性には毎度驚かされる。

獲物を襲うのに威嚇行動をするライオンはいない。身を潜めている。
動物を行動を学ぶことで人間の不可解な部分にも明るくなれるのでお勧めしたい。

心の声というものは動物的な反射行動に近い。
そこに知性というものは特に宿っていない。
「あー腹減った」「激おこぷんぷん丸」
と呟いたところでとても知性的に思えないだろう。
「なんかもやもやする」という声も同様である。

逆にそういう声を見た側ももやもやする必要がない。
犬が「くぅーん」と言ったり、色鮮やかな鳥が高い声で鳴いているのと大差ない。
中にはガラガラヘビのような威嚇音を立てる人もいるだろう。
PROGRESSはそういう声も聞こえてくるシャングリラでありそれもまた彩りだ。

ただ、その良し悪しも場面であって。
例えばメンバー同士の企画ミーティングが
ジャングル状態だったらどうかといえば目も当てられない。

課題を乗り越えるための提案。
良案の1つではカバーしきれない部分があることを批判するよりも、
それも包括できる更なる提案が、
行き届いた配慮のある「頼りがい」となるのだろう。

3.心配より応援を
3-1 心配の定義
毎度、定義から始めているが。
言うまでもなく心配というものは一般的には善行のひとつである。
家族、恋人、友人を心配するのはそこに愛があれば当然だろう。

このコアバリューの中では
「不安を口にする事。
 もしくはそうすることで行動を制限またはコントロールしようとする事」
と理解しておけばいいだろう。

3-2 心配より応援の実践

一つの企画について、課題点を口にする事は悪くない。
そこをどう潰していくかという論に発展するなら価値ある。
これは批判と提案と同じである。

夢を口にする人がいたとして、
「失敗するからやめとけ」などと言うのは確かに実は意味がない。
何事も知恵も工夫も努力もなく成功するということはありえないからだ。

何事にも挑戦するにあたって様々な課題があるのは当たり前のことで、それを乗り越える知恵、工夫、努力にこそ価値がある。それは応援しているという一言でもそれに相当する。

ただし基礎知識だけは甘く見てはいけないだろう。
これを抜きにして成功できる人もいるとは思うが所詮結果論であり、基礎知識は様々な応用力につながる地力になる。
心配ならば基礎知識の習得をアドバイスしたらいいだろう。

3-3 明日死ぬかもしれない
人生には無謀な挑戦というものだってある。
夢を追わない生き方もいい。
それでも幸せは追う事はできるだろう。

ただ、当人にしか読めない風というものもある。
その成功の見込みが妄想だってこともある。

それで事業が失敗してなんぼかのお金を溶かしたとしても、
それで幸せにはなれなくなるというほど人生は単純なものでもない。
一度谷底におちて沼の底に沈んだ経験が
その人に揺るぎない強さをもたらすといったこともある。

あるいはそのまま死んじゃうかもしれない。
だが順風満帆に生きてたって明日死んじゃうかもしれない。

余命があと1年しかない人の挑戦に誰が口を挟もうと思うだろうか。
震災の前日に誰が明日家を失うと予想したろうか。

そう考えると、不安を口にする事は無意味に思えてくるものであり、備えを口にすることに価値がある。
「腹を据える」、「覚悟をもつ」ことができれば
不安を口にする必要はないのだろう。

4.まとめ
各論を掘り下げたことで、
コアバリュー3.0に込められた願いが見えてきた。

・抜け道より正攻法
 →平和で安全なコミュニティへの願い。

・批判より提案を
 →頼りがいのある、強さと優しさを備えた知性へ成長の願い

・不安より応援を
 →落ち着いた勇気、見守る強さと優しさのマインドへの成長の願い

つまり、コアバリュー3.0を体現した人物像は、平和的で頼りがいがあり落ち着きがある。
これは筆者が目標としたい、いい男像だし、また好みの女性像でもある。
コアバリュー3.0の浸透を心より願う。万歳。

執筆者 | 21/05/08 (土) | コラム


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