世界はかくも美しい〜智の連環〜その2

執筆者 | 21/05/06 (木) | コラム

こんにちは。前回は『貞観政要』と『九成宮醴泉銘』について書きました。今回は、前回からの智の連環(連想ゲーム)として、李世民と王羲之について書いてみたいと思います。

 下記内容に誤謬がある場合には、ご指摘いただけますと幸いです。

書聖王羲之と李世民

 中国史上最も有能な皇帝とも言われる唐朝の二代皇帝李世民(太宗)。玄武門の変において兄弟を廃しているので、武力に優れた人、という印象をお持ちの方も多いと思います。もちろんその側面も有名なのですが、文治にも力を入れていた李世民は、優れた能筆家でもありました。

 とくに、書聖と称される王羲之(中国・東晋の政治家、書家)の書に対して並々ならぬ執念を持っていたようで、『蘭亭序』(書道史上、もっとも有名な作品)の真筆を昭陵(李世民の陵墓)に納めさせた、と伝えられています。しかも、当初手に入れることのできなかった真筆を王羲之の子孫である智永の弟子から騙し取らせたとも言われており、権力者のエゴの極みを感じずにはいられません。本気で他人のお墓を暴きたくなりますね(笑)。とは言え、その後王羲之の真筆は度重なる戦乱の最中すべて失われたと考えられており、現在我々は拓本のみにてその美しさを享受しています。

 そんな権力者すら虜にした王羲之ですが、彼の何が人をして書聖とまで言わしめたのか。書を芸術の高みにまで昇華した人物、と言われても、現代において書が芸術の一分野であることは疑いの余地もないので、ピンとこない方もいらっしゃると思います。

書を芸術にするとは?〜文字の歴史〜

 王羲之以前の書はどのようなものだったのでしょうか。筆による文字がいつから使われていたのか分かりませんが、中国・殷代後期(前1300〜前1100年)の甲骨文(亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻んだ文字)は、記す前に筆書きの下書きがあったと考えられています。その下書きを見ることはかないませんが、甲骨文字を見るとわかることがあります。それは、その当時の文字というのは、記録媒体としての機能的側面がおおきかったということです。

 たとえば、横画(一)を書くとして、甲骨文字はこれぞ真一文字というような一直線です。これは、甲骨文字が占卜の結果を記録したもの、すなわち、神の意志を伝えるためのものでそこに人間の意志・意図は介していないことの現れだと考えます。

 この後、青銅器に鋳込まれた文字や石に刻まれた文字(金文や金石文)が現れますが、それらもまた人間の意志の介在する余地は少ないように見えます。これらの文字は、春秋戦国時代にあらわれたものですから、内容としては将軍たちの功績を称えたものになります。そのため、こちらもまた記録媒体としての側面が強いのです。もちろん、金文等にも力強さがあり蔵峰(筆先を丸めて書く方法)ならではの美があります。ただ、書き手個人の意図が混入していると見るのは難しいでしょう。

王羲之の書に見る人間の意思

 これらに対して、王羲之の書は、「一」がほんのわずが右上がりになっています。右手に筆を持ち自分の意志で線を引けば、わずかに右上がりになります。ここに、強い書き手の意思が見て取れます。「私という人間がこの一画を記すのだ。」という明確な意思です。ご信託や将軍の功績の記録としてではなく、己が美しいと思うものを筆で表現しようとしたのだと私は思います。横画だけでなく、打ち込みやはね、はらいといった現代では当たり前の価値観が強い意志とともに表現されています。

 個人の確固たる意思の介在。これこそ、王羲之の書聖たる所以だと思います。

 王羲之の生きた六朝時代は、政治闘争に敗北した貴族たちの悲哀の詩が生まれた時代でした。王羲之の文字は、その内容に従い悲しみや苦しみを表すのにふさわしい書体が書かれています。人間の感情を一画一画に込めたことで書の芸術性が花開いたのです。後年の人物たちがいかに形状として美しい文字を書こうとも、王羲之が切り開いた道の上での出来事なのです。

書聖に反発する男

 王羲之の書に対する評価を決定づけたのは、先述のとおり李世民です。立派な皇帝が(人を騙して)墓場まで持っていきたいほどに好んだ文字なのですから、それはそれはありがたいものです。

 ただ、あらゆる出来事においてそうですが、いかに皇帝が好もうと多くの人に褒め称えられようと、美しさを固定することは美しくありません。王羲之の文字についても、やはり反発する男が現れました。ヒントは、サムネの写真です。

 次回は、その男について書いた上でそこからの智の連環で野口英世のお母さんのお話をしたいと思います。

 ここまでお付き合いただいた方、誠にありがとうございます!

執筆者 | 21/05/06 (木) | コラム


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