昭和、平成、令和

執筆者 | 21/05/07 (金) | コラム

コラム書きたいけど、よくわからん

会員登録はしてみた。書きたいけど、よくわからんまま何もしないで次の月の会費が引き落ちてた。あかんやん。わからないでも手探りでやるタイプ。

ひとまずお試しで書いてみる。

コインランドリーで使う300円。取り出してよくみたら、

昭和、平成、令和だった。

昭和

六本木交差点に実家があった。

大正の関東大震災で、祖父が神田から引っ越してきたらしい。祖母の実家が六本木の老舗の有名書店。あの交差点には、田舎から出てきて、十人兄弟が同じ屋号でそれぞれ店を任されていたらしい。祖父方のルーツは、伊達政宗の伊達家に仕え?、ロシア正教の布教で、ニコライ堂のニコライさんにも仕えていたらしい。

そもそも、祖父はロシアに写真修行に行ってて、隣同士で結婚したのかな?でカメラ好き?の血が騒ぐ。

父が大事にしてたニコンのF2を持ち出して、中学生なのに、ライブカメラマン、高校生でも友達にアイドルの生写真売ってはフィルム代に回す小遣い稼ぎ。学校で商売してた。

友達の紹介で、大学では日大のアメフト部に連なる専属カメラマンしてた。

昭和最後のカメラ女子してて、スポーツ界でもカリスマの鬼監督と有名だったのを史上初の女子マネージャーとして入り込み、カメラ片手に周りをウロウロ。何故かその模様が東宝映画化される。最大の謎だった。

平成

平成元年入社のアメフト雑誌の編集者になった。カメラマンのつもりだったけど、グランドの片隅で編集長に声かけられて、入社してみたら、編集部の記者になってた。

文章書けないんですけど。。。。。。

原稿用紙に鉛筆で書く時代。初めて書いた練習の原稿は、先輩に真っ赤っかに直された。

その先輩はのちに、転職。ニューズウイークのヒラの編集員から編集長になって、テレビのコメンテーターとかでも活躍してた。

編集後記とかは書いてたけど、徐々にワープロになって、(死語)アナログ上司の原稿の清書してた。

英語もわからんのに、サバイバル英語で、単独アメリカ取材にも行き、NFLの周辺取材やら、ジョーモンタナの追っかけ取材をしてた。

タイピングも、人差し指がびっくりするくらいの稼働範囲で、、1文字づつ打っていく、、。徹夜続きの編集の合間に、石垣島に旅行に行くのが生きがいになった。

で、入社して7年後に、実家の所有するフロアのテナントが出てしまったから、六本木交差点角にあるビルで何かをしなければならなくなった。当時はバブル崩壊後の歯抜けビル。何か商売をしろと父に言われて、会社をやめた。

半年間で調理師免許を試験で取り、バーテンダースクールに通い、開業のための資格を取得しまくり、ど素人ながらいきなり40坪70席の沖縄料理店を始めたのが29歳の秋。

サミットやちゅらさんからの沖縄ブームに伴い、店はライブハウス機能もあり、ロケに使われたり、グルメ雑誌、情報番組からもたくさん取材もされ、沖縄ミュージシャンの登竜門としても人気となった。

シホレインボーもここで歌っていた。

開業から8年後に父が癌で急逝して、いきなり社長になって、親戚との相続絡みのトラブルに長年悩まされ続けた。

5年前に家も店も車も資産ゼロリセット状態に。

でも、いろんなしがらみから自由になり、

世界中どこにでも行ける!!と

手に職をつけようと、一流のホテル業界に転職。最底辺で這いつくばって、おもてなしを学んだ。

東京2020に備えるために。

で、オリンピックのボランティアにも応募してみた。

令和

創業から25年。令和になって、やっと乃木坂の2号店を自分の手に取り戻し、身も心も再生しはじめたところでプログレスと出会う。

なんか、いろいろ書いていこうかな???と

自己開示していこうね。

執筆者 | 21/05/07 (金) | コラム


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